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――― サヨナラの練習 1 ―――
ひらひらと、宵闇の空から雪が降り始めた。
月明かりに照らされて、舞い落ちる氷の粒は儚げに煌いている。こういうの好きだろうなぁと思って、隣を歩く弟の顔を見上げた。 残念ながら、弟の方が背が高い。人体錬成をしたばかりの頃は大して変わらなかったのに、しっかりと栄養のあるものが食べられるようになると、あっという間に追い抜かれてしまった。正直かなり悔しいが、それは体が正常に機能しているという証でもあるのだから、率直に嬉しいと思う。それに何と言っても、背の高い弟は非常に格好良いので、まぁいいかということにしている。
「・・・わぁ、綺麗。今夜はホワイト・クリスマスだね。」 案の定、弟は嬉しそうに声を上げた。それを見て、俺もつられたように微笑んだ。
華やかなイルミネーションの大通りを抜けて、閑静な住宅街へと入る。大して広くもない道に、俺達以外の人影は見当たらない。通り過ぎていく窓辺からは、時々楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
周りに誰もいないのを確認して、俺は弟を見上げて声をかけた。 「・・・アル、手が寒い。」 俺の方を向いた弟は、ちょっと意外そうな顔をした。それから、手袋を忘れてきた自分が悪いんでしょうと小言を言いながらも、自分の手袋を片方外して俺に寄越した。俺は少し考えてから、それをわざと機械鎧の右手の方にはめた。
「・・・アル、こっちも寒い。」 そう言って素手の左手を差し出すと、今度は呆れたように苦笑した。けれど何も言わずに、自分の手袋を左手にはめ直してから、荷物をそちらの手に持ち替えた。それから空いた右手を差し出して、俺の少し冷たくなった左手を握ってくれる。 少し高い体温、骨ばった長い指、その感触でアルがここにいるんだなぁと実感し、嬉しくなる。いつも優しいその手が、俺は大好きだった。 普段は外で手を繋ぎたいなんて滅多に思わないし、思ったとしても世間の目を気にしてそんなことは到底出来ない。けれど今日は、何だか特別な気分だった。周りの雰囲気に流されているのかもしれない。何ていうか、はしゃいでいるのかもしれない。そう、・・・浮かれているんだ、柄にもなく。こんな日を二人で迎えることが出来たのが嬉しくて、幸せで。
それからしばらくは、黙ったまま歩き続けた。 しっかりと繋いだ手からは、じんわりとした温かさが伝わってくる。
家まであと少しというところで、不意にアルが立ち止まった。そのまま前に進んでいた俺は、びっくりして振り返る。突然出来てしまった三歩分の距離に、しっかりと繋いでいたはずの手が離れてしまった。 手を伸ばせば届きそうな距離を挟んで、俺とアルフォンスが向かい合う。
「・・・どうした?」 さっきまで優しげな顔をしていたのに、俺をじっと見据える弟は随分と厳しい目付きをしていた。・・・いや、そうじゃない。表情が読み取れないんだ、それを隠すように無表情を装っているから。いつも表情豊かな弟が、こんな顔をしているのをはじめて見た。何だか、怖い・・・。
「・・・兄さん」 アルが口を開いた。その硬い声音に、俺は思わず体がすくんだ。・・・嫌な予感がする。さっきまでの幸せな気分が、一瞬にして吹き飛んでしまった。 「何だ・・・?」 「あのね、言いたいことがあるんだけど・・・聞いてくれる?」 じっと見つめてくるアルの目線を逸らせない。何だか恐ろしいことを言われそうで、本当は聞くのが怖かった。それでも努めて普段通りにあぁ、と返事をした。 「兄さん、ずっと前から言おうと思ってたんだけど・・・。」 「何だ・・・。」
「僕達、別れよう。」
「・・・・・・・・・どういう意味だ?」 「・・・恋人同士なんか止めて、普通の兄弟に戻ろう。」 一瞬で、頭の中が真っ白になった。
ちょっと待て、冷静になれ。よく考えろ。コレは何かの冗談か? ・・・おい、アルフォンス!何か間違えていないか? 今日はエイプリルフールじゃねぇぞ?聖なるクリスマスだ!しかも、この体に戻ってから初めての! 俺はそんなイベントどうでもいいと思ってたけど、お前が二人でパーティーしようって嬉しそうに言うから・・・! 似合わないねってお前にからかわれながら部屋の飾りつけもやったし、料理とケーキも一緒に作って後は食べるだけだし、スゲー屈辱的だったけどプレゼントは何がいいのかって無能上司に相談もした!そんで散々悩んで買った指輪は、引き出しの中でお前の指にはまる時を待ってるって言うのに・・・!
口元が引きつって、唇が震えた。心なしか、地面も揺れているような気がする。いや、震えているのは俺の足元の方か。 「・・・・・・俺のことが、嫌いになったのか?」 「まさか。・・・そんなこと、ある訳ないだろ?」 「じゃあ、何で?」 「もうそろそろ、現実に戻ってもいいんじゃないかなぁって、思って。」 「・・・現実?」 「うん。・・・・・・僕、ウィンリィと結婚することになったから。」
静かな声でそう告げるアルフォンスは、相変わらず無表情のままだ。それとは反対に、俺はおかしくて笑ってしまいそうだ。 あぁ成程、そういうことだったんだ。
「ごめんね、急に。驚かせるつもりは、なかったんだけど・・・」 そうか、そうだったんだな。・・・・・・でもアル、お前が友達の家に泊まるって嘘吐いて、リゼンブールに帰ってたのには薄々気付いてたんだ。その理由が今まで分からなかったけど、それで納得したよ。お前はウィンリィに会うために、俺には内緒で帰ってたんだな。
「・・・もう、こんな生活嫌になったのか、それとも疲れたのか?」 「・・・多分、どっちもそうだ。・・・・・・ごめんなさい、我が侭で。」 アルフォンスは少しうなだれて、軽く目を伏せた。 あぁ、止めてくれ。そんな顔をされると、駆け寄って抱きしめたくなる・・・!
「・・・お前が謝らなくてもいいだろう?俺だって、気付いてなかった訳じゃない。・・・世間から隠れて愛し合わなきゃいけない俺達の関係を、お前が嫌に思っていたことを。そのことで、随分と辛い思いをしてきたことも・・・。」 「・・・兄さん」 「だから、いいんだ。お前は幸せになれ。それでいいんだよ。」
・・・俺は自然と笑うことが出来た。そんな俺を見て、アルの方が驚いていた。きっと怒り出すだろうと思っていたのだろう。自分でも不思議だった。どうして、こんなに落ち着いていられるのか。 でもそれは、いつかこんな日が来るかもしれないって、心の底では思っていたせいなのかもしれない。そしてその日に対する覚悟と諦めが、自然と出来ていたのかもしれない・・・。
最後に俺は、一つだけ我が侭を言った。 「でもアル、今夜は俺の恋人でいてくれないか・・・?明日になったら、ちゃんとお前の兄に戻るから。」 「・・・うん、分かった。」
アルフォンスは小さく頷いた。俺はそれを確認してから踵を返し、歩き出した。何気なく空を見上げれば、雪は止みそうにない。明日にはきっと、街が白銀に覆われているだろう。 少し遅れて、アルフォンスの靴音が追いかけてくる。でもそれ以上、二人の距離が縮まることはなかった。左手が冷たくて仕方ない。やっとの思いで繋いだ手は、あっという間に離れてしまった。そしてこれからその手が繋がれることは、もうないのだろう。
たった今、俺の世界は今夜でいったん終わりを迎えることになってしまった。明日からは、全く違う別の世界が始まるのだ。
・・・・・・アルフォンスのいない世界が。
二人で作ったいつもより豪勢な食事を、二人で食べた。
つい数時間前に笑いながら賑やかに調理されたそれは、恐ろしいほどの沈黙の中で消化されていった。はっきり言って、味なんか覚えてない。俺が焦がしそうになってアルに叱られたメインディッシュも、つまみ食いしてちょっと減ってしまったデザートも。
皿に盛り付けた時は、美味そうにできたなって笑い合ってたのに・・・。 実際にその時が来てみると、料理はただの物体に成り下がった。機械的に口へと運ばれ、咀嚼され、消化されていく。その過程で生まれるはずの会話だとか、感情だとか、そんなものは置き去りにして。 声も出せず、目も合わせられない。俺が想像していたものとは、180度違っていた。こうなるはずじゃなかったのに。・・・たった数時間の間で、何もかもが酷く変わり果ててしまった。
何がいけなかった?俺はどうすればよかった?食事の用意が出来た後で、ワインなんか買いに行かなければ良かったのか?そしたらその帰り道で、あんなことを言われることはなかったのか? ・・・いや、そうじゃない。あんなのは、ただのきっかけだ。今夜なにが起ころうとも、きっとこうなることに変わりはなかっただろう。 何があったとしても、アルフォンスの決心は揺るがなかっただろう。 だから結局、俺には何も出来ることなどないのだ。
世界が崩れていくのを、止める術など・・・。
食事の片付けが終わったところで、今晩一緒に寝たいと言ったら、弟は案外あっさりと頷いた。 さすがに今日は嫌がるかと思っていたのだが、どうやら夜が明けるまでは恋人のままでいてくれるらしい。ただその顔には、いつも見せる羞恥の色は見当たらなかった。
月明かりが思った以上に明るくて、俺はカーテンを殆ど閉めた。 いつもは明るくても平気だし、むしろ顔がよく見えるから好都合だったりするのだが、今日はそんな気分じゃなかった。 アルフォンスはどんな顔をして、俺に抱かれるつもりなんだろう? ・・・それを知ることが、酷く怖かった。
ベッドの中でいつもは物静かなアルフォンスが、今夜はいやに冗舌だ。
「あぁ兄さん、忙しくても食事と睡眠はきちんと取らなきゃだめだよ?外食ばかりじゃ体によくないから、たまには自分でも作ってね。料理って錬金術と似てるから、兄さん練習すれば上手くなると思うんだ。慣れると結構楽しいし。それから、お腹出して寝ないこと。風邪引いても僕は看病できなくなるんだから、健康管理はしっかり自分でやってね。それに掃除と洗濯も。本とかも出しっぱなしにしないで、きちんと片付けて。・・・分かった?」 「うん・・・。」 「兄さんって自分のことにあんまり頓着しないけど、ちょっとはお洒落とかもしなよ?せっかく格好良いんだから勿体無いよ。あと、いい加減大人なんだから、仕事も真面目にね。みんなに迷惑かけちゃ駄目だからね。・・・分かった?」 「うん・・・。」
さっきからずっとこんな調子で、食事の時の沈黙が嘘みたいだった。 しかも内容は、俺達がしていることとは不釣合いな母親の小言のようなことばかりで、睦言には程遠い。体は熱いのに俺の心は冷え切ったままで、意識はどこか上の空だった。それでもぼんやりした頭で、そうか俺は一人暮らしをしなきゃいけないんだということを理解した。 果たして俺に出来るのだろうか・・・? 一人で生きていく、なんてことが。
「・・・兄さん、淋しいの?」 「ん・・・、分かんねぇ・・・」 「・・・淋しくなったら、誰かに甘えればいいんだよ。」
アルフォンスは甘ったるい声を出した。俺はその甘さに飲み込まれそうになりながらも、それを聞き逃すことはなかった。 「・・・お前以外の、誰かに?」 「そう、兄さんって意外といい男なんだよ。だからね、もう少し分かりやすく優しさを表現してあげれば、彼女なんてすぐにできると思うよ?」 「そんな簡単に、分かりやすくなんてできねぇよ・・・。」 「できるよ、兄さんなら。」 「嫌だ。俺が優しいってことは、お前だけに伝わればいいんだ・・・」 あぁ俺今、未練たらしいこと言ってるよな。・・・最悪だ、本当に。
「・・・しょうがないなぁ。それなら、僕みたいな心の広い女の人を探すしかないね。」 アルフォンスは、少し呆れたようにそう言った。アルの言葉はいつも常識的で正しいけど、今回ばかりはそれが間違っていると断言できる。 お前みたいな女はいない。いないから、俺はお前が好きなんだ。お前しか、愛せないんだよ。 ・・・でもその言葉は、喉の奥に引っ掛かって出てこなかった。
「・・・もし、そんな女が見つからなかったら?」 「・・・・・・大丈夫。ちゃんと見つかるよ。」
情けない俺の声に、アルフォンスははっきりとそう言い切った。
アルフォンスはまだ、取り留めのないことをしゃべり続けている。
その声はいつものように明るかった。けれど室内は薄暗く、本当はどんな顔をしているのかは判断できない。でも、そんなことを知りたいとは思わなかったし、俺だってアルフォンスに顔を見られたくなかった。俺はきっと酷い顔をしているに違いないし、アルもやっぱり声の印象とは違う顔をしている気がするから。
俺は緩慢な動きで上体を起こし、アルフォンスの上に覆い被さった。そのまま顔を近づけて、しゃべり続ける唇を自分のそれを重ねて塞いだ。けれど、何だか余計に淋しくなって、すぐに離れる。いつものようにキスの余韻を味わうことも出来なくて、俺は目を逸らした。
とりあえず、アルフォンスは黙った。 俺はベッドサイドの机を探って、例の小箱を取り出した。そのまま、それをアルフォンスの前に差し出す。 「これ、クリスマスのプレゼント・・・」 「・・・・・・あ、ありがと」 気の抜けた声から、アルフォンスのきょとんとした雰囲気が伝わってきた。俺からプレゼントを貰うなんて、思ってもみなかったのだろう。
アルはゆっくりと上体を起こして、俺から小箱を受け取った。その綺麗な指でするするとリボンを解き、蓋を開ける。中から現れた指輪に、アルフォンスは小さく息を呑んだ。
指輪は飾りのない、シンプルなデザインのものだ。 箱にしまっておくのではなく、普段にも身につけて欲しくて、そういうものを選んだ。形に派手さはないけれども、そこには洗練された美しさがあって、どことなくアルフォンスを思い起こさせた。 だから、惹かれるようにそれを選んだ。
「これって・・・」 「・・・・・・要らないなら捨ててくれ。・・・それか、お前が錬成し直してウィンリィにでもあげろよ。」 我ながら、後者の提案は最悪だと思った。ウィンリィへのひがみが丸出しだ。自分のこういう餓鬼っぽいところが、本当嫌になる。
渡さないでおこうかと思った。けれどやっぱり渡したかった。 これは俺の、お前への愛情表現の一つだから。俺がどれだけお前を愛しているのかを、伝えたかった。 たとえ、お前の気持ちがどうであれ・・・。
「・・・・・・馬鹿な兄さん。捨てるなんて・・・、そんなこと出来る訳ないだろ。嬉しいよ、とても・・・」 さっきまでこわばっていたアルフォンスを包む雰囲気が、柔らかくなった。薄明かりの中でも笑みを零したのが分かって、俺は愛しさで胸が痛くなった。
「なぁアル、それお前の指にはめてもいいか?・・・俺達いまはまだ、恋人同士のままなんだろ?」 「・・・うん、いいよ。」
アルフォンスは少し躊躇いがちに、手を差し出した。その手は、右手だった。 これが昨日ならきっと、馬鹿こういうときは左手を出すもんだろと笑って言えただろうに。・・・今は何も言いたくはなかったし、言ってはいけないと思った。
アルフォンスの手を取り、一瞬躊躇してからそっと薬指に指輪をはめた。やはり思った通り、それはアルフォンスの繊細な手によく似合っていた。
「・・・ありがとう、兄さん。・・・でも僕には、兄さんに返せるものが・・・何もない。」 ごめんね、用意してなかったんだ・・・、と小さな声で言う。その言葉で、アルフォンスが俺との別れをずっと前から心に決めていた、ということが分かってしまった。
アルフォンスは俺とは違って、真面目でしっかりした性格だ。約束事はきっちり守るし、記念日とかも忘れたりしない。現に今年の俺の誕生日なんか、3週間も前からプレゼントを用意していたらしい。だからこの別れは、アルの思い付きなんかじゃないってことだ。別れを切り出した後から、俺がプレゼントを寄越すなんて、思ってもみなかった。だから何も用意していなかった、ということなのだろう。
「・・・じゃあお返しに、キスが欲しい。」 「・・・・・・うん、いいよ。」 アルフォンスがようやく、熱のこもった目で俺を見た。
更けていく夜を惜しむように、その存在を体に刻み込むように、俺はアルを愛した。アルフォンスもそれに応えてくれたが、その反応が以前とは少し違っていて、俺はほんのちょっと淋しくなった。 俺達の関係は、確実に変わり始めていた。もう昨日には、戻れない。 二人で一緒に寝る時は、いつも共に朝を迎えた。 そういう日に限って俺の方が早く目覚めて、アルフォンスの寝顔を堪能する。やがて羞恥に顔を染めたアルが目を覚ますと、おはようのキスを贈って抱き合う。そんなことが、自然な約束事になっていた。
けれど今日のアルは、夜が明ける前に部屋を出て行った。 パタンという無慈悲な音が、二人の世界を隔絶する。 そうやって、別れの時はあっけなく訪れたのだった。
随分と日が高くなってから居間に顔を出すと、アルフォンスは何事もなかったかのように笑顔でおはようと迎えてくれた。 きっとこれが、彼にとっての弟の顔なんだろうと思った。昨日約束をしたから、ただの兄弟に戻るって約束したから、俺も何でもないようにおはようと言って笑った。
アルフォンスが荷物をまとめて出て行ったのは、それから三日後だった。
その日は大事な会議があって駅まで見送りに行けない俺は、玄関先でアルと別れた。 俺が幸せになれよと声をかけると、兄さんもねという答えが返ってきた。その言葉に、俺は曖昧な苦笑をして真意を誤魔化した。兄としては黙って素直に頷いて、弟を安心させてやればいいのに・・・。 淋しいと嘆く正直な心が邪魔をして、その言葉に頷くことは出来なかった。
「兄さん・・・」 俺を呼び止めた声がいやに真剣で、また胃の辺りが重くなった。 「何だ・・・?」 俺の目を見て、アルフォンスは一瞬怯んだように口をつぐんだ。けれどすぐ、浅く息を吸い込んでから覚悟を決めたように口を開いた。
「兄さん、・・・さようなら。」
それは短い言葉だった。けれど、重く深く、心の中に突き刺さる。 出来ることなら、聞きたくなかった。今すぐにでも、逃げ出してしまいたかった。 でもそうしなかったのは、それをしっかり受け止めなければならないと分かっていたから。 恋人としてではなく、兄として・・・。 そして、それに返事をしなくちゃいけないことも分かってる。けれど、口の中が乾いて、なかなか言葉が出てこなかった。その瞬間が訪れることを厭い、拒むように。
「・・・さようなら、アル。」 ・・・・・・涙が出そうになった。
じゃあなと言って、俺は玄関のドアを開けた。そのまま振り返らずに、後ろ手でドアを閉める。扉が完全に閉まろうとした瞬間に、アルフォンスは何事かを呟いた。そのすぐ後に、小さな音を立てて扉は閉まった。
・・・それは本当に小さな声で、弟の独り言だったのだろう。けれどアルフォンスの声に対してだけは耳ざとい俺には、それが聞こえてしまって・・・。アルがごめんと言うのが聞こえてしまった俺は、足を速めた。振り返ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせながら。
・・・・・・あぁ、アルフォンス。お前が謝る必要なんてどこにも無いんだ。 お前はただ、幸せになれ。それだけでいい。俺が望むのはそれだけで、お前が幸せなら、俺だって幸せなんだよ。
けど出来ることなら、俺がお前を幸せにしたかった。でもお前が俺の手を離したことで、それが不可能だったんだと分かったから、俺は大人しく引き下がることが出来る。
この恋を始める前から分かっていたことじゃないか、俺達は普通の関係とは違うって。 だから俺がアルを幸せに出来ないのだとすれば、この恋は潔く諦めようって。 アルフォンスを縛り付けて不幸にするよりも、アルを解放してその幸せを願おうと、ずっと心に決めていたんだ。・・・お前が俺を受け入れた、あの日から。 俺は弟をアルと呼ぶ。アルは俺を兄さんと呼ぶ。
その呼び名は、この世界の中でアルフォンスにだけ許されたものだから、俺はそう呼ばれるのが好きだった。けれどそれは同時に、禁忌を証明する呼び名であり、アルの俺を呼ぶ声が、時々辛そうに歪むことには気付いてた。 よくモテるお前が彼女はいないのかと尋ねられて、いつも返事に困っていたことも知ってた。知り合いの結婚式に呼ばれた時も、お前は幸せそうだねなんて言いながら、羨ましそうに見ていたっけ。お前のことだから、子供だって欲しいと思っているのかもしれない。
結婚も子供も、街中で堂々とキスをすることさえ、俺達には叶えられない夢だ。俺達が一緒にいる限り、叶わない夢なんだ。 それはつまり、離れてしまえば可能性は生まれるのであって。それが世間で言うところの、普通の幸せが手に入るって言うことなんだろう。
俺達は異常なんだ。それを決して、忘れちゃいけない。
俺がお前を幸せにしてやるなんて傲慢なこと、言える訳がない。
********** 後編に続きます。 内容は兄弟のその後と、弟の視点というか事情というか。 気長に待っていただけるとありがたいです。
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