[PR] 臨床試験
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『鋼の錬金術師の弟が、病院に運び込まれたらしい。』
・・・という未確認情報がマスタング大佐の耳に入ったのは、正午を少し過ぎた頃だった。
――― この身に浸透する恋 1 ―――
その情報を持ってきたのは大佐の部下の一人だったのだが、その部下も市内視察の途中でそのような話を耳に挟んだというだけのものらしい。なので、今のところは未確認ということだ。
その部下が話を聞いたという人物は、午前中にたまたま知人の見舞いでセントラル病院に行ったそうだ。そこで知人の病室を訪れたものの、なにやら廊下が騒がしい。 覗いてみると、金髪の青年と医者が何やら言い合っていた。というよりは、突っ掛かる青年を医者がなだめているという風だった。 青年はしきりに「弟は大丈夫なのか?!」とか、「大丈夫だったら何で目を覚まさないんだ?!」とかいうことを医者に詰め寄り、医者や看護婦は「落ち着いてください、エルリックさん!」と青年の剣幕に押されながら必死だったそうだ。
部下が話を聞いたその人物は単にその容姿が印象に残っていただけで、鋼の錬金術師のことを知っているわけではなかったのだが、部下には金髪のエルリックといえば一人しか思い浮かばなかった。 しかもその錬金術師は今日司令部に姿を見せておらず、マスタング大佐の部下達の間では、一体どうしたのかとちょっとした騒ぎになっていた。
話の最後に部下は、まぁ人違いかもしれませんけどと付け加えていたが、大佐にはその人物が鋼の錬金術師だという妙な確信が生まれた。 と言うよりは、それなら納得できるという方がより正確だろうか。
鋼の錬金術師――エドワード・エルリックは、現在マスタング大佐の下で少佐として働いている。
上官に対する態度や言葉遣いは悪いものの勤務態度はまあまあ真面目で、勤務中にふらっとサボりに行ったり少々遅刻することはあっても、無断欠席は今まで一度もなかった。 一見時間にはルーズそうに見えるのに、と疑問に思った大佐が一度それとなく尋ねたところによると、毎朝律儀な弟が起こしてくれるらしい。しかも仕事に行きたくないだとか、サボりたいだとかほざいた日には容赦ない鉄拳が飛んでくるのだそうだ。 そこで大佐は、時々兄に荷物を届けに来たりする弟の姿を思い浮かべた。可愛らしい笑顔の弟は現在大学生だが、兄よりも随分しっかりしているように見えたし、実際にそうだった。と言う訳で兄に何かあった時は、必ず弟が連絡を寄越した。
けれど今日、エドワードはいつまでたっても姿を現さないし、弟からの連絡も無い。 家にも電話をかけてみたのだが、誰も出ない。
何かあったのではないか、事故に巻き込まれたのではなどと部下達がにわかに騒ぐ中、一方で大佐はそれ程気にしてはいなかった。何かあったとしても大抵の事は自分で処理できる力量はあると思っていたし、それ以上のことなら連絡くらいは寄越すだろうと。 そういう訳で大佐は、完全なエドワードのサボりだと思っていた。ついでに言うなら、厳しい副官にたんまりと今日中に仕上げなければならない書類を持ってこられ、サボりたいのはこっちの方だと変な八つ当たりもしていたくらいだ。
けれど部下の話を聞いて、これは想像以上の事態かもしれないなと少し唸る。 話の内容からすると、金髪の兄の方は随分と弟のことを心配していたようだし、その弟は目を覚ましていないようだ。 病院にいた人物が本当にエルリック兄弟だとすれば、弟の意識が無いのなら連絡できないのは当然だし、エドワードだって取り乱して仕事どころじゃないだろう。家にいないのも頷ける。
エドワードは弟のことになると、人が変わったようになってしまう。仕事中と弟の傍にいる時の落差が激しくて、本当に同一人物かと疑ってしまうくらいだ。 エドワードはこの世で一番大事なものは何だと聞いたら、間髪いれずに弟だと答えていた男だ。そんな男にとって弟が一大事とあらば、正気ではいられないだろう。 そこまで考えて、大佐は何だか急に兄弟のことが心配になってきた。
そういう訳で大佐が病院を訪れたのは、話を聞いてから1時間ほど経った頃だった。 受付で話を聞いてみると、やはり午前中に運び込まれた青年がいて、その名はアルフォンス・エルリックと言うそうだ。場所を聞いてから病室の前まで行ってノックをしたのだが、返事は無くて中から話し声はおろか物音も聞こえてこない。
大佐が少し躊躇ってからゆっくり戸を開けると、椅子に座った鋼の錬金術師の後ろ姿が目に入った。私服のまま髪は一つに結わえているもののぼさぼさで、力なくうなだれていた。何かを祈るように、両手でベッドに横たわる人物の手を握り締めている。 大佐は目線を動かして、その人物――アルフォンスの顔を見る。特に目立った外傷は無く、まるで眠っているだけのような穏やかな顔だった。 一向に反応を見せないエドワードに大佐が声をかけると、エドワードは驚いて戸の方を振り返った。
「・・・な、んで・・・あんたがここに?」 「心配して来てやったのだ。・・・それより、連絡くらい寄越したまえ。」 「あぁ・・・、忘れてた・・・」 予想通りの答えを返すエドワードに小さく溜め息を吐きながら、大佐はアルフォンスの傍へ寄って顔を覗き込む。やはり眠っているようにしか見えない。
「一体何があったのかね?」 「・・・アルが、階段から落ちたんだ。・・・頭を打ったみたいで、まだ意識が戻らない・・・」 エドワードが不安そうに弟の顔を見る。随分と憔悴しきっている様だった。数時間前までは医者に突っ掛かる元気があったらしいが、今ではそんな余裕も無いようだ。 「・・・目を覚ましさえすれば、大丈夫なのだろう?」 「あぁ、そうなんだけど・・・」 力なく頷いて、エドワードはいっそう強くアルフォンスの手を握り締めた。
すると、その手の力に応える様にアルフォンスの長い睫毛が震えた。
瞼がゆっくりと持ち上げられ、澄んだ金色の瞳が現れる。 何度か瞬きをし、まだぼうっとした表情でエドワードを見、それから少し首を動かして大佐の顔を見た。
「・・・アルっ!アル!!」 エドワードは一気に強張った表情を崩し、身を乗り出して弟の顔を覗き込んだ。アルフォンスはまだ状況を飲み込めていないのか、きょとんとした顔でエドワードを見返していた。大丈夫か、心配したぞと矢継ぎ早にかけられる言葉にも、特に反応が見られない。 「・・・アル?」 黙ったままの弟の様子がおかしい事に気付いたエドワードが、また不安そうに顔を覗き込む。エドワードに至近距離でじっと見つめられて、アルフォンスは気まずそうに目を逸らし、困ったように視線を彷徨わせてから大佐を見た。
「・・・アルフォンス、大丈夫か?」 見上げてくる目が何だか怯えているように見えて、大佐も心配そうに声をかける。 「アル・・・?どっか痛いのか・・・?どうしたんだ?」 じっと顔を覗き込むエドワードを見返すことも無く、アルフォンスの視線は大佐に向けられたままだ。何か言いたげに唇を動かしている。やがて、少し掠れた声が紡がれた。
「・・・あの大佐、こちらはどなたですか?」
アルフォンスの言葉の意味を図りかねて、僅かな沈黙が訪れた。 アルフォンスは困ったように、なおも大佐を見上げている。大佐は一瞬固まってしまった思考を何とか働かせる。確かに今、自分は大佐と呼ばれたし、この部屋の中にいるのは自分とエドワードだけ。と言うことは、“こちら”が差す人物と言うのは・・・、まさか・・・?
「は・・・?何ふざけてんだよ、アル?こんな時に冗談はよせよ。」 どういう反応をすればいいのか図りかねて、エドワードは引きつった声を出した。
「・・・いえ、冗談じゃありません。あなたは誰なんですか?」
アルフォンスは、至極真面目だった。 ベッドからゆっくりと上半身を起こし、今度はじっと目の前のエドワードを見つめる。その目が冗談を言っているようには、残念ながら見えない。
「え・・・、嘘だろ?本当に俺が誰だか分からないのか?」 「は、はい・・・」 信じられないといった顔で、エドワードがアルフォンスを見る。その顔があまりにも悲愴で、アルフォンスはびくりと怯んだ。二人の間に、何とも言えない気まずい沈黙が訪れた。
「・・・アルフォンス、私のことは分かるかね?」 二人の様子を静観していた大佐が、確認するように声をかけた。 「えぇ、もちろん。マスタング大佐ですよね。」 「自分が何者かということは?」 「分かります。僕の名前はアルフォンス・エルリック。19歳で、今は大学生です。」 アルフォンスの声はしっかりしていて、いつもと変わらないように見える。礼儀正しい態度も、丁寧な言葉遣いも。 「・・・けれどもこの男のことは知らない、と?」 「はい。・・・初対面だと思うんですけど・・・」 少し眉をひそめたその表情も、何度か見たことのあるものだった。どうやら、一部分を除いた記憶には問題は無いらしい。大佐は軽く目を伏せて、考え込むように低く唸った。
「・・・そうか。鋼の、彼は君のことだけ忘れているようだ。恐らく頭を打ったせいで、君に関してだけ記憶喪失になっているのだろう。」 大佐の言葉に、エドワードは目を見張る。アルフォンスの細い肩に手を置き、驚いた表情のまま弟に詰め寄る。その迫力に押されて、アルフォンスはびくりと体を強張らせた。 「そんな・・・、本当に俺が誰だか分からないのか?」 「う、うん・・・」 エドワードが絶望したように、ふらふらと後ろによろけた。そのまま俯いて、黙り込む。
暫く沈黙が続き、耐えられなくなったアルフォンスが声をかけようとすると・・・。 エドワードはキッと顔を上げて、物凄い目付きでアルフォンスを睨んだ。その瞳が相当怒っているのが分かって、アルフォンスはまたびくりと体を震わす。 やがて室内には、エドワードの怒気を含んだ声が響いた。
「・・・おい、アル!俺はお前の恋人なのに、よりにもよって俺のことだけ忘れるってどういうことだ!?俺だったら、お前のことだけはぜってー忘れねぇぞ?!俺に対する愛が全然足りてねぇ!!」
エドワードは急に何かが切れたように、一気にまくしたてた。さっきまでの心配そうな表情は何処へやら、今にも掴みかかりそうな勢いで完全に逆切れしていた。そんなエドワードの様子に驚きながらも、一方でアルフォンスは自分の耳が信じられなくなっていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!僕があなたの恋人って、どういうこと!?」 訳が分からないといった風で、アルフォンスが聞き返す。自然と声が高くなっていた。 「はぁ?そのまんまの意味だよ!」 お前こそ何言ってんだという風に、エドワードも怒鳴り返した。
逆切れし始めたエドワードの言葉を聞いて、大佐は盛大に肩を落とした。いきなりの堂々としたカミングアウトに、大佐の方が驚いてしまった。心中でまたもや、うーんと唸ってしまう。ぶっちゃけ、ドン引きだ。 と言うか、記憶のない弟に最初に告げるべきことが、自分達が恋人だってことなのか?普通は兄弟だってことの方を先に言うんじゃないのか・・・?
大佐は哀れみを込めた目で、アルフォンスを見た。アルフォンスは目を見開き、口をぽかんと開けていた。 あぁ、アルフォンス・・・可哀想に。普通の人間にしてみればかなりショッキングなことをさらりと言われて、固まってしまったな。
やがてアルフォンスが、おずおずとエドワードの様子を窺うように口を開いた。 「あの、あなた・・・男ですよね?」 「当たり前だろ?」 エドワードの声には、何言ってんだお前というような苛立ちが含まれていた。アルフォンスはなおも信じられないと言った風に、口をパクパクさせている。 「お、男同士なのに恋人って、一体どういうことなの?」 「だーかーらー、俺達は男同士だけど愛し合ってたんだよ!」 「嘘だ、そんなのありえない!!」 「嘘じゃねぇよ!何でそんな思いっきり否定するんだよ!?」
やけに力強いアルフォンスの否定に、エドワードの苛立ちは加速した。表情がみるみる険しくなっていく。けれど今度は、それにアルフォンスが怯むことは無かった。むしろエドワード以上に顔を険しくさせる。
「だってあなた、僕の好みのタイプと全然違うんだもん!確かにあなたは顔も髪もきれいだけど、僕はもっと可愛くて優しい人が好みだもん!あなたみたいな口も目付きも悪くて乱暴そうな人を好きになるなんて、絶対ありえない!!」
アルフォンスは言いよどむことも無く、ばっさりと言い切った。その強い目に気圧されて、今度はエドワードが怯む。 「・・・・・・!!・・・そ、そうだったのか?じゃあ、今までのは・・・・・・」
徐々にアルフォンスの言葉に対するショックが大きくなってきたのか、エドワードはがくりと地面に膝を着いた。全身からは、もうこの世の終わりだみたいなどす黒い絶望オーラが出ている。大佐は今度はエドワードの方が不憫に思えてきて、何だか無性に悲しくなった。
「アルフォンス、この男は君の兄だよ。」 何とか事態を収拾しようと、大佐が口を挟む。それに対して、アルフォンスは怪訝そうな表情を浮べた。 「兄・・・?僕は一人っ子のはずですけど?」 「ふむ・・・一体どうなっているんだ?」 大佐の目が真剣なので、アルフォンスは少々不安になってきた。大佐が冗談を言っているとは思えないが、自分に兄がいないのも確かだ。記憶を手繰り寄せて、自分の人生を思い起こす。やはりその中に、目の前にいる金髪の人物の顔は無い。
うーんと考え込む中、どうやらショックから立ち直ったらしいエドワードが急に復活してきた。相変わらずの形相と迫力でアルフォンスに詰め寄る。 「おい、アル!お前人体錬成の記憶はどうなってる?お前を取り戻したのは誰なんだ?」 「はぁ?そんなの僕の父さんに決まってるだろ?と言うか、人体練成のことを何で他人のあなたが知ってるの?」 アルフォンスが不審人物を見るような目でエドワードを見た。それに気付いたエドワードの不機嫌度は、ますます上昇していく。 「だからっ!!俺はお前の恋人で兄貴だって言ってるだろ!」 そこで、アルフォンスは恐ろしいことに気付いてしまった。さっきまではあまりにも自然に言われていたので脳が理解できていなかったらしい。いや、もしかしたら理解するのを拒絶していたのかもしれないが。 「ちょ、それって近親相姦だろ?信じられない、何てことを言ってるんだよ!あなたもどっかで頭打ったんじゃないの!?」 「なっ・・・!!」
アルフォンスの言葉で、エドワードの感情は遂に沸点を迎えた。 訳の分からない衝動に体を支配される。 エドワードは自分でも無意識のうちに、乱暴に弟の肩を掴んで自分の方に引き寄せ、勢いよく唇にキスをした。
「え・・・?ぅわあぁぁー!!」
ばちーーん!!
アルフォンスは絶叫しながら、こちらも無意識のうちにエドワードの頬をめいっぱい引っぱたいた。
「痛ってぇー!!何すんだよアル!!」 「それはこっちのセリフだよ!!信じられない!!」 痛む頬を手で押さえるエドワードと、顔を真っ赤にして怒鳴るアルフォンス。 「うっせえよ!こういう訳分かんねぇ状況の時は、キスすりゃ大概のことはうまくいくんだよ!お前、子供の頃からそういうお伽話好きだったろ!?」 「それこそ訳分かんないって!!」 「一回で思い出せないんだったら、何回でもしてやる!!」 エドワードが触れようとするのを、アルフォンスは手を突っぱねて何とか防ごうとする。 「何言ってんだよ、この変態!!僕、お姫様じゃないし!」 「いや、お前はそこいらの女よりよっぽどお姫様っぽいぞ!」 「あなた馬鹿!?」 アルフォンスはまた、高い声で絶叫した。 「アル、兄ちゃんに向かって馬鹿とはなんだ!そんな弟に育てた覚えはねぇぞ!」 「だから、あなたのことなんて知らないって言ってるでしょ!?」
ぎゃあぎゃあと言い合い、今にも掴み合いの喧嘩が始まりそうな状況に、大佐はかける言葉を失った。 人の気配にはっとして戸の方を振り返ると、どうやらここの騒ぎを聞きつけて、戸の外には人だかりができている様だった。 あぁ情けないと頭痛をおこしそうな頭を抱えて、とりあえず大佐は大きく息を吸い込んだ。この騒動を収集するために。
「もういい加減にしなさい!続きはゆっくり家に帰ってからしたまえ!」
簡単な検査を受けてから、アルフォンスは無事に退院した。
それから大佐の車に乗せてもらい、兄弟の家へと向かうことになったのだが・・・。 移動中の車内の空気は最悪で、兄弟は一言も口を利かず、邪悪なムードが刻一刻と増していく一方だった。
やがて車は、閑静な住宅街の中にある一軒のこじんまりとした家の前に止まる。そこが兄弟がセントラルに構えた自分達の帰るべき場所だった。 エドワードはかつてそこを“俺とアルの愛の巣”などと表現して、弟におもいっきり頭をはたかれたりしていたが、確かにそう言われればそう見えなくも無い。綺麗に整えられた小さな庭にも植物や花が植えられていて、アルフォンスがかいがいしく世話をしているのだろうなということが窺われた。
車を降りた男三人は、改まった面持ちで玄関の前に並ぶ。
「アルフォンス、君の家はここで合ってるかね?」 「えぇ、僕の記憶の中ではここに住んでることになっています。・・・ところで、何故あなたも付いてくるの?ここは僕の家のはずですけど?」 アルフォンスはじとっとした目付きでエドワードを睨んだ。エドワードも同じような目付きで睨み返す。 「ここはお前と!俺の!二人の家だ!!」 また喧嘩が始まりそうなので、大佐が二人の間に割り込む。 「まぁ、ゆっくりと話し合いたまえ。焦っても記憶は戻らないだろうからな。私は仕事があるから失礼するよ。・・・あぁ、アルフォンス、この男に嫌気が差したらいつでも私の家に来ていいからな。」 「本当ですか?ありがとうございます!」 大佐がにこりと微笑むと、アルフォンスも嬉しそうに笑った。目を覚ましてから初めてのアルフォンスの笑顔だというのに、それが自分に向けられていないことがエドワードにはおもしろくない。 「余計なお世話だ、とっとと帰れ!心配しなくてもあんたの世話になんかならねぇよ!」 大佐から引き剥がすようにアルフォンスの腕を乱暴に掴んで、エドワードは家の中へと入った。
家の中を軽く見回して、アルフォンスはそれが自分の記憶の中の情景と何ら変わりないことを確認した。だから自分の記憶が少しおかしいらしいことが、いまいち実感として掴めない。 「ねぇ、あなた本当にここに住んでるの?」 「・・・お前なぁ、まだ疑ってんのか?」 エドワードが呆れた声を出した。 「当たり前でしょ?記憶の中では、僕はここで一人暮らししてたんだから。」 「じゃあ証拠見せてやるよ。こっち来い!」 不機嫌そうな表情のまま、エドワードがアルフォンスの腕を強く引いた。 「もう痛いってば!乱暴にしないでよ!」 「あ・・・、悪い。」 アルフォンスが声を上げると、エドワードははっとしたように腕を放した。 「・・・・・・。」 その表情が自分の失態を悔やむように苦くなったのを見て、アルフォンスは何とも言えない気持ちになった。 エドワードはそのまま黙って二階へと向かい、アルフォンスは大人しくその背に従った。
「ほら、ここが俺の部屋だ。」 エドワードが自室のドアを開けて中へと入る。一方のアルフォンスは、自分の記憶との相違を見せつけられて呆然としていた。 「・・・嘘、僕の記憶ではここに部屋なんてなかったのに。」 「突っ立ってないで、早く中に入れよ。」 エドワードに促され、アルフォンスは素直にそれに従った。けれど、物が散乱した部屋を見てすぐに顔をしかめる。床には本やら紙やら、脱ぎっぱなしの衣類などが落ちており、食べかけの料理がのった皿や酒を飲んだ跡もあった。 「・・・うわ、汚い。」 「・・・言っとくけどな、これ半分はお前がやったんだからな。」 「・・・僕が?」 アルフォンスはきょとんとした声を出した。 「そう。ここら辺の本はお前が書庫から持ってきたやつだし、これもお前が書いたもんだ。ほら、これ自分の筆跡だろ?」
エドワードが床に散らばる本を指差し、それから散乱する紙の一枚を拾ってアルフォンスに差し出す。それを受け取ってみると、それは確かに自分の筆致だった。けれどその内容に関しては全く記憶に無い。紙面から察するに錬金術の公式についてのようだが、やはり見覚えさえなくて思い出せない。 「・・・ホントだ。」 「大佐からワイン貰ったから、それ飲みながらやろうって言い出したのは俺だけど、そこらへんの料理はお前が作ったんだし。・・・それに、これだって・・・お前のだろ?」 言いながらエドワードはベッドサイドに落ちていたものを拾い上げた。アルフォンスが側によって見ると、それは少し皺になった自分のシャツだった。 「・・・確かにそうだけど。何で、こんなところに・・・」
現実と記憶のズレに、アルフォンスの頭は混乱し始める。昨日のことを振り返ろうとしたのだが、何だかぼんやりとしたことしか思い出せない。 俯いて考え込んでいる内に、アルフォンスはどさりとベッドの上に押し倒された。驚いて顔を上げると、エドワードが覆いかぶさってきた。金色の目に、至近距離から顔を覗き込まれる。その顔がやけに真剣で、アルフォンスはどうしたら良いのかと困惑する。
「なぁ、この体勢で何か思い出さないか・・・?」 エドワードの声は低く、さっき言い合っていた時とは別人のようだった。そのことに、また困惑する。 「え・・・、なにかって・・・」 「例えば、昨日の夜のこと・・・とか。」 「昨日の、夜・・・?僕、ここにいたの・・・?」
アルフォンスは必死に昨日のことを思い出そうとした。けれど焦れば焦るほど、その形が曖昧になって霧散していく。 「そうだ。昨日の夜、お前は俺と一緒にこの部屋にいた。で、こんな体勢になったんだ。」 「それって、どういう・・・」
エドワードは説明する代わりに自分の左手を伸ばして、アルフォンスの頬にそっと触れた。その感触に、アルフォンスは微かに体を震わす。 エドワードは滑らすように指先を口元まで動かし、何かを確かめる様に弟の唇をなぞる。その瞬間、アルフォンスの中では何かがぞくりと蠢いた。 その正体が何なのか自分でも分からず、途端に酷く恐ろしくなった。 「・・・・・・っ!」
とっさに腕を伸ばしてエドワードの体を押し返すと、意外にあっさりと解放された。 アルフォンスは急いで立ち上がると、エドワードの部屋を出て行った。 その足音が階下へと遠ざかっていく。
一人で部屋に残されたエドワードはぎゅっと掌を握り締めて、突き付けられた現実に耐えようとしていた。先ほどアルフォンスが見せた表情が、脳内に焼きついている。 自分の前であんなに怯えるアルフォンスの姿を、今まで一度も見たことは無かった。少なくとも昨日までのアルフォンスは、エドワードに対してあんな風に怯えたりはしなかった。
「・・・アル・・・本当に、忘れちまったんだな・・・」
ダイニングに置かれたテーブルに手をついて、アルフォンスは高鳴る鼓動を何とか静めようとしていた。 喉が渇いているような気がして、水でも飲もうとキッチンへ入る。 そこで食器棚から自分のカップを取り出そうとして、アルフォンスは思わず手が止まった。その目が、自分のものの隣に置いてある見覚えのないカップの方に引き付けられる。
「・・・これ、僕のと色違いだ・・・。」
そのカップはこの家に引っ越してきた頃に買って以来、ずっと大事に使っているお気に入りの品だった。けれどアルフォンスには、色違いのそれを買った覚えは無かった。 しかし、現実では二つのカップはこうして仲良く並べられている。片方は自分のものに間違いないのだから、もう片方は恐らく兄のものなのだろうと思う。
アルフォンスは色違いの方を手にとって見た。自分のと同じように大切に扱われているのが、何となく分かった。 あんな兄が、どちらかと言えば可愛らしいこんなカップを買うとは思えない。と言うことは、これは自分がおそろいにしたくて買ってきたものなのだろうか・・・? 自分が、兄のために買ったものなのだろうか・・・?
アルフォンスはそのカップを買ったときの事を、思い出そうとした。けれどそれは掌の上を流れる水のように、捕まえようとすればするほどするりと指の間から零れていく。
それを自分はどんな気持ちで買ったのか。 そのカップに込めたはずの自分の感情を、思い出せない。
そのことが酷く悲しく思えて、アルフォンスはぎゅっと胸が痛くなった。
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2へと続きます。記憶喪失の弟と、逆切れぎみの兄の話です。 それにしても、兄の思考回路は何か変ですね。イヤ、おかしいのは私の頭の中のほうですね・・・。 ちゃんと終われるか、かなり心配です。
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