|
鏡を見た後の絶望は、ひどいものだった。
世界の崩れる音が聞こえるかのようで、皮肉にも僕は、泣いていた。 窓の外は、雨。 それがまるで、とめどない涙のように思えた。
・・・ねぇ神様、可哀相な僕らを憐れんで、泣いてくれるの・・・・・・?
――― 離れられない、運命だから 1 ―――
1週間前のひどい雨が嘘だったかのように、セントラルシティの空は青く穏やか。 ところが中央司令部の一室では、そんな空模様にそぐわぬ不穏な空気が流れていた。 その原因はというと、部屋のソファに座って自分の上司と向かい合ったまま黙り込んでいる少年にあった。
鋼の錬金術師、エドワード・エルリック。 赤いコートに黒い服、ひとつに結わえられた三つ編み。 いつもと変わらぬ格好なのに、まるで別人であるかのように覇気がない。 常ならば太陽のように冴え、人を惹きつける瞳も今はどこか焦点が合っておらず、ただぼんやりと宙をとらえているのみ。 彼の上司であるマスタング大佐のからかいにくってかかることもなく、なにか異様な雰囲気が漂っている。 そんなエドワードの様子に、傍で見ていた顔なじみの軍人たちは困惑の色を隠せない。
「エドワード君、どうぞ。」 ホークアイ中尉は、紅茶のカップを机の上に置いた。 「ありがとう・・・」 エドワードは小さく礼を述べ、ゆっくり口元へとカップを運ぶ。 「あら、今日はアルフォンス君と一緒じゃないのね?」 辺りを見回して、中尉は少し珍しそうな顔をした。 エドワードは自分の弟の名を耳にした一瞬だけ、その瞳が揺れた。
そう、数分前に突如として司令部を訪ねてきたエドワードは、ひとりきりだった。 いつも一緒にいて兄をなだめている弟の姿が、今日はどこにも見当たらない。 一緒に司令部まで来たのなら、その大きな鎧の姿の弟を見落とすなんてことはまずないし、社交的な弟が司令部の面々に会えるのをいつも楽しみにしているのは兄も知っているはずだ。 だから弟一人だけを宿に置いてきたというのも、考えにくい。 ともかく、あの外見とはうらはらに穏やかな弟の姿はどこにも見当たらない。 そしてそのことがエドワードをよりいっそう、いつもの雰囲気から遠ざけているようにも見える。 対になったものが片方しかいないのは、何か妙な違和感があった。
「鋼の。とうとう愛想をつかされて、弟に置いていかれでもしたのか?」 からかう大佐の声に、エドワードは「そうだよ。」と思いがけない肯定の意を示した。 その意味を図りかねる周りをよそに、少し俯いたまま淡々とその先を紡いでゆく。
「・・・・・・アルは先に逝っちまった。俺を置いて先に天国へ・・・って天国がホントにあればの話だけどな。」 エドワードはそう言って、急にクスクス笑い始めた。 その少年には不釣合いな、狂気さえ含む嘲笑に、周りにいる大人たちは徐々に寒気を感じ始める。 「・・・それはどういう意味だね、鋼の。」 尋常ではない様子に、大佐の顔も強張っていく。 「そのままの意味だけど?」 「・・・君に冗談は似合わんぞ。」 「・・・・・・冗談でこんなこと言えるかよ。」 「・・・・・・・・・」 「・・・アルは、死んじまった。」 その場にいた誰もが、それを悪い冗談だと思いたかった。 けれど同時に、その少年がそんな冗談を言うはずないということも十分に知っていた。 まして、少年にはよりにもよって“弟が死んだ”なんて恐ろしいことを、冗談でも言える筈がない。
「・・・1週間前に、人体錬成をしたんだ。で、失敗した。・・・ただ、それだけのことだ。」 なんでもないように、事実だけを短く述べたエドワードの瞳には生気が無い。 「・・・これで俺には何にもなくなっちまった。もう旅をする必要も無いし、人体錬成について調べる必要も無くなった。・・・だからさ、これからはあんたの下で働かせて欲しいんだ。」 「・・・それは、軍人になるということか?」 戸惑う大佐に、エドワードは平然と頷き返す。 「あぁ。・・・なんだかんだ言って、あんたには随分世話になったし、迷惑もかけたからな。これからは俺があんたを大総統にしてやるよ。」 そう言って顔を上げたエドワードは、ようやくいつもの彼らしい自信に満ちた笑みを浮かべた。 けれどその瞳には、やはりいつもの鋭い光が無い。 どこか虚ろでちゃんと前を見ているのかさえ、疑わしい程に。
「・・・本当にそれでいいのかね?簡単に諦めるなど、君らしくない。何か違う方法は・・・」 言いかけた大佐の声を遮って、エドワードは何かが切れたように怒鳴り返した。 「あんたに何が分かる?!俺だって死ぬほど考えたさ!でもどうすることもできなかった!・・・だって何も残っていなかったんだ!・・・空っぽの鎧以外、何も・・・」 声を荒げたエドワードの顔が、今にも泣き出しそうなくらいぐしゃりと歪んだ。 机に手をついて乗り出した体が、小刻みに震えている。 彼が初めて見せる切羽詰った様に、部屋の中がしんと静まり返る。
「・・・ぁ・・・、悪ぃ・・・怒鳴ったりして・・・。まだ、混乱してるんだ・・・。だから・・・しばらくそっとしといてくれないか?・・・落ち着いたら、また来るから・・・。」 じゃぁな、とぎこちなく笑ってみせて、エドワードは部屋を後にした。 残された者達は呆然としたまま、小さくなっていくその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
司令部から逃げるようにして出てきたエドワードは、その足で真っ直ぐ駅へと向かった。 もう何度も訪れたセントラル駅。 ただ、いつも隣にいてくれた姿は、無い。 そう思うだけで、胸が苦しい。
早くどこかに行ってしまいたかった。 そうじゃなきゃ、人混みの中にアルフォンスを探してしまう。
まだ旅していない場所に行ってしまいたかった。 そうじゃなきゃ、思い出の中にアルフォンスを探してしまう。
・・・早く、一人になりたかった。 けれど反面、それはとても恐ろしいことのようにも思える。自分は今まで、完全に一人ぼっちになったことなどないのだ。 いつも隣には、愛しいアルフォンスが・・・いてくれたから。 笑い合い、励まし合い、慰め合い、叱責され、呆れられ、許されながら。 共に、歩んできたのだ。 ・・・何も考えたくなくて、早く一人になりたい。 けれどそれは余計にアルフォンスの欠如を浮き立たせるようで、恐ろしいとも思う。 どうしていいか分からなくて、それでもエドワードは列車に飛び乗った。
とにかくここに、とどまってはいたくなかった。
1週間前の午後。 空はどんよりとした曇り。 エドワードは落ち着かない様子で、部屋の中を行ったり来たりしている。
ここは二人が密かに錬成を行うために見つけた廃屋だった。 セントラルの中心部から外れたところにぽつんと立っている一軒家で、廃屋といっても中はそれほど荒れてはいない。 二人は適当に中を修繕し、家具を寄せて、一番広い部屋で錬成を行うための準備を行った。 部屋の床には、複雑な錬成陣。 それを確かめるように、エドワードは陣の周りをうろうろしている。 アルフォンスはそんな兄の様子を、部屋の隅っこに立ったまま見ている。
「兄さん、子供じゃないんだからちょっと落ち着きなよ。」 「誰が子供だよ!俺はもう小さくねぇぞ!!」 子供という単語に過剰反応したエドワードは、勢いよくアルフォンスの方を向いた。 18歳となり身長もだいぶ伸びた今でも、エドワードのそのクセはなかなか抜けないようだった。 そんな兄を見てアルフォンスは可笑しそうに笑い、いつもと変わらない弟の姿を見たエドワードもまた、つられて笑った。 「・・・やっとこの日を迎えられて、スゲー嬉しいんだけど同じくらい緊張してて・・・落ち着かねぇんだよ。」 「心配しないで、兄さん。きっとうまくいくよ。・・・僕は兄さんを、信じているから。」 その穏やかな声を聞いて、アルフォンスはきっと微笑んでいるに違いないと思った。 表情が変わらなくても、弟の感情はちゃんと伝わってくる。 アルフォンスの優しい言葉と自分への信頼を目の当たりにして、エドワードは胸が震えた。
アルフォンスはゆっくりと陣の真ん中へと歩み寄り、エドワードを見つめた。 エドワードも頷き返し、深呼吸をひとつする。 「・・・いくぞ。」
パンッと両手を打ち、錬成陣に触れた。 途端に溢れ出す強い光に、エドワードは目が眩んだ。 がしゃんと鎧が崩れ落ちるのを、辛うじて視界の端に捉えたところで強烈な衝撃に襲われる。 何とか抗おうとするが、意識が徐々に薄れ始める。 真っ白で強烈な光が辺りを包み込み、目を開けていられない。 必死にアルフォンスの名を呼ぼうとしたが、そこでエドワードの意識は途切れ、ぐらりと傾いだ体が床へと倒れた。
・・・窓の外では黒く、重たい空から、冷たい雨が降り始める。 ぽつぽつと降り注いで地面に染みていく水滴は、やがてザアザアと音を立てて廃屋の屋根を打つ。 厚い雲に覆われた空からは一筋の光も差し込まず、辺りが闇に包まれていく。
・・・どれくらい、ここでそうしていたのだろうか? エドワードは冷たい床の感触に、ハッと目を覚ました。 途端に軽い頭痛に襲われるがそんなものは無視して、急いで上半身を起こし、辺りを見回す。けれど目に映るのは薄暗い闇、耳に聞こえるのは雨の音、感じられる気配は自分のものだけ。 「アルっ・・・!アル、アル?!」 部屋に響くのは、自分の声だけ。 それに応えてくれるものは、何もない。 エドワードはそばに用意しておいたランプを探し、急いで灯をともした。 錬成陣の真ん中に駆け寄り、思わず息を呑む。
そこには崩れた鎧が一体。 頭の部分が取れていて、そこから覗く血印は掠れてほとんど見えなくなっていた。
驚いて崩れるように座り込んだエドワードの掌が床に着き、何かざりりとした感触に触れた。ゆっくりとそちらに目を向けると、赤黒いものが床にこびりついている。 ・・・・・・それは、どうやら血のようだった。 ふと、部屋にあった時計を見ると、もう夜の時間を差している。 自分達が錬成を行ってから、5時間が経過していた。
雨は止むことなく、しとしとと振り続けている。
エドワードは廃屋の中を探し回り、喉が枯れるまでアルフォンスの名を呼び続けた。雨に濡れることも厭わずに外へも出たが、どこにもアルフォンスの姿は無い。 やがてびしょびしょになったエドワードは、雫を垂らしながら鎧の前へと戻ってきた。 懸命に探したのに、どこにもいない。 だとすれば、それはつまり・・・。
・・・・・・自分はアルフォンスに、置いていかれた。 そう頭が理解すると、エドワードはそのまま気を失った。
翌日の天気は、皮肉なほどに快晴。 エドワードは寝食すら忘れて、アルフォンスの痕跡を探した。 けれど見つかった結論は、自分が今ここに一人きりだということのみ・・・。錬成は失敗したのか、その原因は何なのか、あまりにも何も残っていなくて分からない。
――アルフォンスは死んだのか・・・?
そう、結論付けようとしたけれど、その言葉は可笑しいくらいにリアルさを伴わなかった。 死んだ、なんて信じられないし認められない。自分の魂全てが、アルフォンスの死を否定している。 しかしながらその魂も、大事な存在の欠如は認めていた。 そばにいない、とただそう思うだけで、とてつもないくらいの恐怖と絶望に襲われた。
廃屋の中を這いずりまわりながら、中央司令部に向かいながら、エドワードはこれが夢なんじゃないかと何度も何度も思った。 けれどそれは、そうであって欲しいというただの願望に過ぎない。 そう認めると、自然に自嘲の笑みがこぼれた。
がたんがたんと列車に揺られながら、空っぽのままの向かいの席を見つめた。 思い出の中のアルフォンスが、こちらを見て笑っている。 さっき大佐に言ったことを思い出しながら、エドワードは呟いた。
「・・・お前は本当に、死んじまったのか?」
アルフォンスの幻は、何も言わずにふっと消えてしまった・・・。 アルフォンスは死んだと、さっき自分で口にしてみて滑稽だと思った。それは全く重みのない言葉のようで、虚構のように聞こえた。 けれども、魂も肉体もない状態を、“死”以外になんと呼べばいい・・・?
なぁ、アルフォンス・・・
口には決して出せなかったけれど・・・。 俺はお前のことが、大好きだった。 ・・・・・・今も、愛してる。
がたんがたんと列車は揺れる。 俺は一体、どこに行こうとしてるんだろうな・・・? エドワードは瞼を閉じて、その中にアルフォンスの姿を探した。
なぁアル、俺って薄情なのかな? それとも壊れちまったのかな? お前が死んだっていうのに、涙一つ出てこねぇんだ。 よりにもよって、一番大事なお前がいなくなったっていうのにさぁ・・・。 もしかしたらまだ、認めてねぇのかも。 お前の死を。 受け入れられねぇだけかもしんねぇけど・・・。
俺にはお前を失った、喪失感が無いんだ。だから、世界中探せばどっかで逢えるんじゃないかって思ってる。それに俺とお前の精神はまだ、繋がってるような気がするんだ。 そうじゃなきゃ、おかしいよ。 俺がこんな風に冷静でいられるはず無いんだ。 アルがいなきゃ、生きてる意味なんてない。アルがいなきゃ、生きてくことなんてできやしない。 俺はお前に依存してるんだ、その存在なくしてはもう生きられないくらいに。 だからお前が死んで俺が生きてるなんて、やっぱりおかしいんだ。 もしお前が本当に死んだなら、きっと俺の心臓も勝手に止まってる。 もしくは気が狂って、自分で止めてるかもな・・・。
俺の思考回路は歪んでる。けど、それでも構わない。 歪んでて偏ってる結論だ。でも、俺はそれを信じたいんだ。 もう・・・、それしかない。俺が縋れるものなんて・・・。
「俺のアルフォンスは、死んでなんかいない・・・。」
|