――― 期間限定の王子様 2 ―――

 

 

 

空は雲一つない晴天で、バイト一日目としては幸先のいいスタートだ。

 

バイト先の喫茶店までは僕達の家から徒歩で行ける距離で、兄さんの勤めている中央司令部からも近い。だからこそ、兄さんは僕のバイトを渋々認めてくれたようなものだ。

遠いところは行き帰りが心配だからダメだと、兄さんは譲らなかった。

全く、僕をいくつだと思っているのやら・・・。

 

まぁ、結果的に近頃評判の店で働けることになったのだから良かったけれど。

 

 

 

可愛らしい店の外観を表通りから眺めて気合を入れ、裏口から店内へと。

ドキドキしながら制服に着替えて挨拶に行くと、料理人もやっている店長さんが似合っていると褒めてくれた。

 

まだ接客はできないので、ランチタイムは厨房で簡単なお手伝いをした。

さすがに、人気の店とあって忙しい。

この店はセントラルの中心部にあるから、仕事場の昼休みに食べに来ている人が多いようだ。

 

食器洗いを手伝いながら、チラチラとフロアの方を窺ってみる。僕と同じ制服のウェイトレスのお姉さんが、きびきび笑顔で働いていた。

僕にも出来るだろうかと少し不安になるけれど、やっぱり働く姿はかっこいいなぁと思う。

 

 

 

ランチタイムが過ぎると一旦客足も落ち着いてきたので、僕は接客について教えてもらうことになった。

 

「アルフォンシーネ・エルリックです。宜しくお願いします。」

「メアリ・テューダーよ。こちらこそ、宜しくね。」

 

そう言ってにっこり笑ったメアリさんは、赤毛に碧眼のとても綺麗な人だった。多分、僕より五つくらいは年上だろう。大人っぽいというか、自分が随分子供に思えてしまう。

 

「アルって呼んでいい?私のことも名前で呼んでいいから。」

「は、はい!」

「じゃ、さっそく基本からやってみましょう。」

 

それから僕はメアリさんに、挨拶の仕方や言葉のかけ方、おじぎの角度なんかも教わった。

 

「後は、実践してみないと分からないわね。もうすぐ常連のお客さんがお茶に来るから、ちょっと練習に付き合ってもらいましょうか。」

 

メアリさんがそう言って時計を確認していると、ウェイターのジャックさんがこちらへやって来て、こっそりと表通りに面した窓の方を指差した。

メアリさんと二人でさり気なくそちらを見ると、怪しげな格好の人物が観葉植物の影に隠れてじっと店内を覗き見ていた。

もうすぐ初夏だというのにコート、マフラー、帽子にサングラス、ついでにマスクという、不可解さマックスの格好である。

 

三人で一旦厨房に引っ込んで、ひそひそと声を出す。

メアリさん達は“店長に知らせた方がいいかしら”と不安げだったが、僕には一つ頭を過ぎったことがあった。

 

からん、とドアベルが鳴って、さっきの不審な人物が入ってくる。

僕は厨房からその姿をしっかりと見た。

そうして、さっき頭を過ぎったものが正解だったと確信を得る。

 

不審人物はそわそわと店内を見渡して、躊躇いがちに窓際の席へと座った。

 

「・・・メアリさん、僕が行ってきます。」

「え?ちょっと、アル?!」

「大丈夫です!上手くできてるかどうか、見てて下さいね!」

 

メアリさんの心配そうな声を振り切って、僕はお水とお手拭をトレイに載せ、自分にとって初めてのお客さんの元へと向かった。

 

 

 

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

「こ、コーヒーをっ・・・」

 

その随分上擦った声で、僕はまた一つ確信を得る。

けれどそんなことはおくびにも出さず、メアリさんに教わった通りに笑顔を浮かべた。

 

「コーヒーですね。かしこまりました。」

 

注文を確認して、軽くおじぎをする。それから、くるりと踵を返して厨房まで。

その間、背中には痛いほどの視線を感じたままだった。

 

 

 

オーダーを通すと、メアリさんに心配そうに声をかけられた。

 

「アル、大丈夫だった?変なこと言われなかった?」

「大丈夫ですよ。それより、僕ちゃんとできてました?」

「それは、全然問題なかったけど・・・。」

 

あまりにもあっけらかんとした態度の僕に、メアリさんはちょっと困惑気味だ。

が、それも仕方ないだろう。

皆の目には不審人物にしか映らないだろうが、アレは僕にとってはよく知った人物なのだから。

 

アレは、間違いなく兄さんだ。

 

いくら顔を隠そうとも、体格や気配や雰囲気で分かる。

おまけに声は、全然誤魔化せてなかった。

それに、僕の方ばかりを気にしていることでもバレバレだ。

全く、生まれた時からずっと一緒にいるんだから、あんなちゃちな変装で騙されるわけがないのに。

 

けれど、それを今指摘することは止めた。

どうせ兄さんは、僕がちゃんとやれてるか心配で見に来たんだろう。

だったら、このまま気付かない振りして、ちゃんとやれていることを見せ付けてやる。

 

とまぁ、呆れるほど過保護な兄さん相手に、僕はそんなことを考えていたわけである。

 

 

 

良い香りを漂わせるコーヒーをトレイに載せて、僕は再び兄さんの元へ。

 

丁寧な仕草を心がけながらカップをテーブルへ置くと、兄さんが顔は上げないままちらちらと視線でこちらを窺っているのが分かった。

けれど何にも気付かない振りをして、あくまでお客さんとして接する。

 

僕はまた、にっこりと笑みを浮かべた。

 

「ごゆっくりどうぞ。」

 

兄さんは結局、帰り際も僕の方をちらちら気にしてはいたが、何にも言わないまま帰っていった。

 

 

 

 

 

初めてのバイトを終えて、夕方の大通りを歩く。

 

買い物を済ませてから家へと戻り、夕食の準備に取り掛かる。

シチューを煮込みつつ今日一日を振り返ってみたのだが、そんなに悪くはなかったと思う。

お店の中の雰囲気はすごく良かったし、メアリさんもなかなか様になっていると褒めてくれた。

まだまだ覚えることは沢山あるし経験も積まなければならないけれど、頑張ってやっていればそのうち慣れるだろう。

 

僕はシチューを味見して、満足気に頷いた。

 

後の問題は、兄さんだけだ。

兄さんの目には、今日の僕はどう映ったのだろう。合格点だろうか。

初日なのだから、そのへんはちょっと差し引いて欲しいんだけどな・・・。

 

とまぁ、そんなことを考えていると、煩く玄関扉の開く音がした。

あれ、いつもより早いような・・・。

まさか、僕がちゃんと帰ってるか心配で早く帰って来ちゃったとか、そんなことないよね・・・。

 

 

 

ばたばたと煩い足音で、兄さんがリビングに入ってくる。

 

走って帰ってきたみたいに息を切らせた兄さんは、僕の顔を見るとほっとしたような表情になった。

 

「兄さん、おかえり。いつもより早いね。」

「べっ、別に、早くなんかないぞ!いっ、いつも通りだぜ!」

 

そう言う目が、完全に泳いでいた。

 

「・・・・・・ちゃんと今日の分の仕事、済ませてきたの?まさか、途中で放り出してきたなんてことは・・・」

「だっ、大丈夫だって!」

 

兄さんは僕の言葉を遮ってそう言うと、さっさと洗面所の方へと逃げてしまった。

それを見て、僕は盛大な溜め息を零したのだった。

 

 

 

せっかく兄さんの好きなシチューを作ったのに、食べている間も兄さんのテンションは妙に低かった。

と言うか、何かぎこちない。

 

「・・・あー、・・・その・・・バイトは、どうだった?つっても、初日だしな。今日は見学でもしてたのか?」

 

もごもごしてようやく口を開いたと思ったら、こんなことを訊いてきた。

・・・なるほど。そう来たということは、兄さんは自分で見に行ったということを隠しておくつもりらしい。

と言うか、あの変装でばれてないと本気で思っているのだろうか。

・・・うわー、有り得るな。だって、兄さんだもん。

頭いいくせに、馬鹿で鈍感な人だもん。

 

「・・・今日はね、厨房のお手伝いと接客の練習をしたよ。でも、見てるだけじゃなくてちゃんとお客さんの相手もしたんだよ。」

「へ、へぇ・・・そうか。」

 

僕は兄さんに乗っかることにして、何にも気付いてませんよって顔で話を進めていく。

 

「最初のお客さんがね、コートにマフラーに帽子にサングラスっていう、ちょっと変わった格好の人だったんだけど。僕多分、その人のことは一生忘れないと思うなぁ。だって、僕にとって初めて相手をしたお客さんなんだもん。明日も来てくれたらいいのになぁ。」

 

感慨深げにそんなことを言うと、兄さんはビクリと肩を震わせた。

その反応が分かり易すぎて、僕は思わず笑いそうになってしまって何とか堪える。

 

「それより兄さん、僕の心配はいいから、自分の仕事はちゃんとやってよね。部下の人に迷惑かけちゃダメだよ?マスタング准将にもね。」

 

たしなめる様にそう言うと、兄さんは気まずそうに頷いた。

 

 

 

 

 

バイト二日目、今日も天気は快晴だ。

 

昨日と同じようにランチタイムは厨房のお手伝いをして、客足が落ち着いてからはメアリさんに色々と教えてもらう。

やっぱり覚えることが沢山あって大変だなぁと思いながらメモをとっていると、メアリさんの驚いたような声がした。

 

僕がメモ帳から顔を上げてメアリさんの見ている方を向くと、そこには昨日見たような光景が広がっていた。

観葉植物の影に隠れて、店内を窺う不審な男の姿。

 

僕は、思わず顔を引きつらせた。

 

・・・あぁ、兄さん!!まさか、今日も来るとは思わなかった・・・。

 

何ということだろう。昨日様子を見ただけでは、まだ不安だと言うのだろうか?

過保護も大概にしろ、と思いかけて、僕はハッとした。

もしかして、そんなまさか・・・。

 

昨日僕が、明日も来てくれたらいいのに、なんて言ったから・・・?

 

・・・そんなことを考えているうちに、ドアベルが鳴って不審者もとい兄さんが入ってくる。そうして、昨日とおんなじ席に座った。

僕はとっさにトレイにお水とお手拭を載せて、兄さんの元へと向かっていた。

 

・・・冗談のつもりで言ったのになぁ、本気にしちゃって。

でも、兄さんは優しい人だね。

行けば僕が喜ぶと思ったから、またわざわざ変装して来てくれたんでしょう・・・?

全く、仕事はサボっちゃダメだって昨日注意したばっかりなのに。

ちょっと嬉しいから、僕、怒れないじゃないか。

 

兄さんは、今日はマフラーとマスクはしていなかった。

うん、マフラーはどう考えたって季節外れだし、コーヒー飲むならマスクはのけないといけないしね。

まぁ、きょどきょどした態度のせいで不信感は全く拭いきれていないけど。

昨日僕を騙しきれた(と本人は思っているのだろう)から、今日は控え目にしてきたのかもしれない。

 

 

 

「・・・いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

「こっ、コーヒーで。」

 

そう俯いて言う声は地声と変えているつもりなんだろうけど、僕には丸分かりだ。

 

「かしこまりました。」

 

笑いそうになってしまうのを堪え、僕は優雅におじぎする。

厨房に戻るまでの間、昨日と同じように背中に視線を感じてまた可笑しくなった。

 

 

 

オーダーを通すと、メアリさんが心配そうに声をかけてきた。

 

「・・・アル、あの人って昨日の人よね?」

「はい。」

「ホントに大丈夫?」

「はい。案外フツーの人ですよ。」

 

僕は笑って、そう答えた。

 

 

 

 

 

バイトを始めてから一ヶ月あまり。

 

兄さんと僕の、見ず知らずのお客さんと店のウェイトレスという関係は、なんとまだ続いていた。

 

兄さんはいつも午後のティータイムにやって来て、いつも同じ席に座りコーヒーを注文する。

相変わらず帽子にサングラスという怪しげな格好をしているが、店の皆はもう見慣れてしまったという感じだ。

初日からのこともあり、兄さんの注文をとりに行くのは僕の役目となっている。

当然のことながら、兄さんは僕には話しかけてこない。

だから僕も、あくまでお客さんの一人として接して、余計なことは何も言わない。

毎回、お決まりの文句を繰り返すだけだ。

 

最初の頃は奇妙に思ったそのやりとりも、今ではちょっと楽しいと言うか・・・。

ごっこ遊びをしてる時のような、不思議な感覚がある。

僕にとって兄さんはあくまで兄さんで、こんな風に見ず知らずの他人として兄さんに接するのが新鮮なのかもしれない。

 

兄さんは時々仕事の都合で来れない日もあるが、それ以外の日は来てくれる。

けれど僕がバイトを休みの日には来ないから、メアリさんなんかは“どうしてアルの休みの日を知ってるんだろう”と心底不思議そうだ。

それに僕は、“ただの偶然ですよ”なんて返している。

なんだか今更、という気がして、店の皆にはアレが自分の兄だと言い出せないままになっていた。

それに恥ずかしいじゃないか、過保護の兄が様子を見に来ているんだなんて知られたら。

 

 

 

からん、とドアベルが鳴って、今日も兄さんはやって来た。

けれどいつもと少し違って、小脇に封筒を抱えている。

 

いつものように注文が終わると、兄さんはさっそくその封筒の中から書類を取り出して読み始めた。

どうやら、今日は仕事が忙しいらしい。

僕は厨房に戻りながら、兄さんの方を振り返った。

書類の文字を追う目は真剣そのもので、相変わらずの集中力だ。

だけど少し、顔色が悪いような気もする。

ああいう時の兄さんって、たいがいご飯食べずにずっと作業してることが多いんだよなぁと、僕は過去の経験を引っ張り出した。

今日はちゃんと昼ご飯食べたのかなぁと、少々心配になってくる。

 

厨房に戻ってくると、僕はあるものに目が留まった。

 

「店長さん、これ、僕が一切れ買ってもいいですか?」

「・・・?いいけど、お土産にでもするの?」

 

不思議そうな顔の店長さんをよそに、僕はティータイム用に準備されたケーキの中からアップルパイを一切れ皿に載せた。

 

 

 

「・・・お待たせしました。」

 

僕は注文のコーヒーを兄さんの前へと置く。それから、注文にはなかったアップルパイも隣に置いた。

兄さんが戸惑ったように顔を上げる。

 

「・・・これは?」

「サービスです。疲れていらっしゃるように見えたので、甘いものでも食べて元気になってもらえればと思いまして・・・。」

 

僕がにこりと微笑めば、兄さんは驚いたように目を見開く。

 

「・・・ありがとう。」

 

そう言った兄さんは、普段の僕には見せないだろう酷く照れたような顔で笑った。

 

 

 

からん、とドアベルが鳴って、兄さんは司令部へと急ぎ足で帰っていった。

そんなに忙しいのなら、今日は来なくても良かったのに。

まだ、行けば僕が喜ぶからとでも思っているのだろうか。

確かにそれはそれで嬉しいけれども、兄さんの負担になるようでは困る。

 

今日は兄さん、帰りが遅くなるかもしれないなぁなんて考えていたら、メアリさんに声をかけられた。

 

「・・・あの人、ホントに最近よく来るよね。」

「そうですね。」

「アルのこと、気に入ったのかしら?」

 

その声に、僕は曖昧な返事を返す。

まぁ、僕のことを気にしてるのは間違いないけれど。

メアリさんが思っているようなことはない。だって僕達、兄弟だし。

 

「・・・でもアル、気を付けないとダメよ。お客さんと親しくなるのは良い事だけど、特別扱いはあまり感心しないわ。相手が男の人なら、尚更ね。」

「・・・どういうことですか?」

「私の友達の話なんだけど、その子もウェイトレスやってたの。だけど親しくなった常連のお客さんから、ストーカーの被害に遭っちゃって、結局違う店に転職したのよ。」

 

ふう、と息を吐いたメアリさんの顔が悩ましげに歪む。

 

「・・・そうなんですか。」

「うん。アルは可愛いし良い子だから、私ちょっと心配だわ。」

 

気遣わしげなメアリさんの表情に、僕はいらぬ心配を掛けてしまったと申し訳ない気持ちになってしまう。どうにもいけない、相手が兄さんだからと気を抜きすぎていたようだ。

 

「分かりました。これからは気を付けます。」

「うん。でも、お客様と親しくなるのは大事なことよ。その加減が難しいってだけで。」

「はい。」

「不安を煽りすぎちゃったかしら?まぁ、犯罪まで行くケースは稀だと思うけど・・・」

「いえ、気を付けるに超したことはないですから。」

「そうね。」

 

こくりと一つ頷いて、僕は改めて気を引き締めた。

 

 

 

 

 

いつもよりのんびりした午後。

 

今日は兄さんが休みの日なので、僕もそれに合わせてバイトの休みを取っていた。

兄さんは特にやることもないらしく、居間のソファで本を読んだりしながらダラダラしている。

僕は、朝から掃除やら洗濯やらで忙しい。

ぱたぱたと家の中を動き回る僕を、兄さんはちらちら気にしている。

 

自室にこもらず居間にいるのは、ちょっとでも僕と一緒にいたいからなのだろう。

兄さんはああ見えて、意外と寂しがりやさんなのだ。

 

旅をしていた頃に比べれば、僕達が一緒に過ごす時間はかなり減った。

 

今までは、二人で同じ場所に立って同じものを見ていることが当たり前だった。

だけど今は、違う場所に立って違うものを見ていることの方が多い。

僕の知らない兄さんも、兄さんの知らない僕もいる。

それはやっぱり、少し寂しいことかもしれないな。

 

 

 

「兄さん、お茶の時間だよ。」

 

声をかければ、兄さんはソファからむくりと起きた。

僕はティーセットをトレイに載せて、キッチンから居間へと運ぶ。

それらをテーブルへと置く所作は、自分で言うのもなんだけど随分手馴れてきたと思う。

今日のおやつは、バイト先の店長さんからレシピを教えてもらったチーズケーキだ。

紅茶も美味しい淹れ方を教わったから、ふわりと良い香りが漂っている。

バイトを始めてよかったなぁと、しみじみしながら満足気に兄さんの隣に座った。

 

「どう?美味しい?」

 

期待を込めて訊けば、“うまい”と返事が返る。“よかった”と言葉を返して、僕もケーキに口を付けた。

 

「・・・アル」

「んー?」

「・・・バイト、楽しいか?」

 

そう言われて、僕はきょとんとした顔で兄さんの方を見た。

バイトのことについて兄さんが話題にしたのは、初日以来だったからだ。

 

「楽しいよ。そりゃあ仕事だから、全部が全部ってわけじゃないけど。お店の人もお客さんも良い人ばかりだし、こうやって新しいことも勉強できるしね。」

「・・・そっか。」

 

小さく頷くと、兄さんは黙ってしまった。と言うよりは、何か考え込んでいるようだ。

 

「・・・兄さんはさ、僕がバイトすることがイヤなの?」

 

僕は思い切って、心に引っかかっていたことを口に出した。

すると兄さんはハッとしたように顔を上げて、ふるふると首を振る。

 

「そうじゃない。・・・アルはよく気が利くし人懐こいから、ああいう仕事には向いてると思う。」

「そうかな。」

「あぁ・・・。」

「・・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・。」

 

静かなリビングに、気まずい沈黙が流れる。

僕はそれに耐えられなくなって、ガチャンと乱暴にカップを置いた。

 

「・・・・・・・・・もうっ!思ってることがあるなら、はっきり言ってよね!いくら僕だって、ちゃんと言ってくれなきゃ分からないよ!」

 

僕の声にびっくりして、兄さんは目を見開く。

 

「なっ、泣くなよ、アル!」

「泣いてないよ、バカ!」

 

そうだ、泣いてなんかいない。心の中で、ちょっと泣きそうになっただけだ。

だって、悲しいじゃないか。

兄さんは明らかに何か言いたそうにしているのに、僕には言ってくれないんだもん。

遠慮されるのも隠し事をされるのも、すごく嫌だ。

何でも言ってほしい。兄さんのことを分かりたいんだ。

僕に壁を作らないでよ。

たった二人だけの兄弟なのに・・・。

 

俯いていると、唐突に抱き締められた。

あの、バイトの前日の夜みたいに強い力で・・・。

 

 

 

「・・・・・・兄さん?」

「・・・・・・ごめんな・・・」

 

その声が震えていて、僕はとっさに兄さんの背中に自分の腕を回した。

 

「・・・俺さ、アルをこの家から出したくなかったんだ。だから、アルがバイトに行くのも嫌だった。」

「・・・僕のことが心配だから?」

「それもあるけど・・・。アルが、俺の知らないところに行っちまうのが嫌だったんだ。バカだよな、俺・・・。俺もアルも、もう子供じゃねぇっつうのに・・・。」

 

自嘲したような声に、僕は小さく笑ってしまう。

なんだ、おんなじこと考えてたんだね。さすがは兄弟だ。

 

「・・・僕も、そういうの考えたことあるよ。だって兄さん、家では全然仕事場の話とかしてくれないんだもん。・・・今まではずっと一緒だったからね、不安になるのも仕方ないよ。」

 

僕は逞しく広くなった兄さんの背中を、優しくなだめるようにゆっくり撫でた。

身体は大きくなったけど、心はまだ少し子供のままみたい。

どうやら二人で一人前の状態から抜け出せるのは、もうちょっと先みたいだ。

 

「やっぱりアルには、広い世界で色んな人と触れ合ってる方が似合ってる。・・・だから、ごめんな。アルをこの家から出したくないとか、アルの自由を奪うようなこと考えちまって・・・」

 

兄さんは抱き締めていた腕の力を抜いて、申し訳なさそうに僕の顔を見た。

兄さんは僕が新しい世界で働く姿を間近に見て、そんなことを考えていたんだね。

 

「ううん、いいの。兄さんが僕のこと気にしてくれるのは、すごく嬉しいよ。自分が大切にされてるって、実感できるもん。」

 

僕はにこりと笑みを浮かべる。それにつられて、兄さんもちょっと笑った。

 

「・・・これからはさ、アルの好きなように生きろよ。」

 

そう言いながらも、兄さんはどことなく寂しそうな顔をしている。

あぁもう、ホントに、考えてることがすぐ顔に出ちゃうんだから。

僕は可笑しくなって、またくすりと笑みを零した。

 

「確かに、今まで知らなかった世界を生きるのは楽しいよ。だけどね、こうやって兄さんと二人っきりでのんびりするのもすごく好きなの。だって兄さんの隣が、僕は一番落ち着くから。」

 

“今、すごく幸せだよ”と甘い声で囁くと、“俺も・・・”と小さく返事が返った。

 

 

兄さんは照れたように頬を染め、少し泣きそうに見える顔で笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

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