病室から眺める空は、今日も妬ましいほど青くて遠い。

 

 

 

 

――― 魔法の言葉を、もう一度 2  ―――

 

 

 

 

もうすぐ、兄のやってくる時間になってしまう。

 

いったん意識し始めると、アルフォンスは落ち着かなくて仕方がなかった。

 

足音が聞こえる度にドキリとして、それが何を意味するのか考えずにはいられない。

ちょっと前までは、それは期待だったはずだ。あぁ、今日も来てくれて嬉しい、と・・・。ずっと一緒の生活だったから、少しでも離れているのは不安だったし寂しかった。

 

けれど、今は・・・?

こんなにも心が掻き乱されるのは、一体どうして・・・?

 

 

 

カツカツ、と足音が聞こえてきた。

 

一瞬身構えてしまう、けれどこれは兄ではない。随分と優雅で規則的な足音は、アルフォンスの部屋の前でぴたりと止まった。

コンコン、と静かなノック音。

誰だろうと疑問符を浮かべて返事をすると、扉の向こうから現れたのはなんとも意外な人物だった。

 

「やぁ、アルフォンス。具合はどうかね?」

 

現れたのは、マスタング大佐だった。

 

意外な訪問者の出現に驚いている間に、大佐は扉を閉めてこちらに歩み寄り、さっさと椅子に腰掛ける。アルフォンスはようやく声を出すことができた。

 

「た、大佐、どうしてここに・・・?」

「どうって、君のお見舞いだが。」

「えぇ?」

そう言われてよく見れば、大佐は私服と思しきスーツ姿だった。せっかくの貴重な休みを、アルフォンスのためにわざわざ?そんな、まさか・・・?

 

「あのっ、大佐・・・!お忙しいのに、こんな所まで来ていただかなくてもっ・・・」

「なに、気にすることはない。」

「でもっ・・・」

「実はさっきまで司令部にいたのだがな、夕方には戻らねばならんのだよ。今は、少々長い昼休みといったところだな。」

「そう、なんですか。」

「だから、ちょうど空いたこの時間を利用して、君に会いに来たという訳だ。ここは司令部からも遠くないからな。」

 

大佐は、アルフォンスへと微笑を向ける。

だから君が気にする必要はないのだと、大人の優しい目は言っていた。

 

「・・・ありがとうございます。」

じわりと何かが浮かんでくる。思えば、兄と病院関係者以外に会うのは久しぶりだった。

 

「いや、それにしても思っていたよりは元気そうで良かった。」

「大佐が良い病院を紹介してくれたおかげです。」

「君が頑張ったからだろう?・・・・・・鋼のが、君の容態はまだ安定していないから見舞いに来るな、と煩くてね。よっぽど酷いのかと心配していたんだ。」

「えぇ?兄さんが、そんなことを?」

 

アルフォンスは目をぱちくりさせた。

今まで誰も訪ねてこなかった原因が、まさか兄にあったなんて。

 

「あぁ。ホークアイ中尉やハボック少尉なんかは特に君に会いたがっていたのだが、あれが絶対に来るなと言うものだから遠慮していたんだ。しかし、今の様子を見ると、もう見舞いに来ても大丈夫だろう?」

「はい。僕も、皆さんにお会いしたいです。」

アルフォンスの顔から、自然と笑みが零れる。それを見て、大佐は一瞬目を見開いたのだが、アルフォンスは浮かれた気分のせいでそれには気付かなかった。

そして次の瞬間には、脳裏を兄の顔が掠めていってあっという間に表情が曇る。

 

兄が大佐達に言った“絶対に来るな”という言葉と、兄がアルフォンスに言う“外に出るな”という言葉とは、もしかして同じことを意味しているのではないだろうか?

 

「全く、あれはいくつになっても過保護だな。もちろん、君限定での話だが。」

そう言って大佐は、おかしそうに苦笑を零している。

けれどアルフォンスは笑えなかった。

そうだこれは、過保護なんていう問題じゃない。

もしかして兄は、アルフォンスを外に出さないように、外の目に触れないようにしているのではないか・・・?

そうだとしたら、その理由は簡単に想像がつく。

 

「退院したら、司令部にも顔を出してもらいたい所だが、この分だと鋼のが許してくれなさそうだな。」

冗談めいた口調で大佐はそう言うけれど、やっぱりアルフォンスは笑えない。自然と声のトーンが下がっていく。

 

「・・・・・・・・・あぁ、そうですね。兄さんはあまり僕を、人目に晒したくないみたいですから・・・。」

「・・・アルフォンス?」

「・・・・・・・・・兄さんがそう望むのなら、僕は出歩いたりせずに、じっとしていようかと思っています。」

「・・・アルフォンス。」

「・・・はい?」

 

急に硬くなった大佐の声にハッとして、アルフォンスはいつの間にか俯いていた顔を急いで上げた。大佐はいつもの柔和な笑みでなく、至極真面目な顔でこちらを見ている。

 

「鋼のは、そんなことは思っていないよ。」

「・・・?・・・・・・そんなこと、とは?」

「それは、本人に聞くと良い。」

「・・・?」

訝しげな様子のアルフォンスに、大佐はいつもの笑みを浮かべて見せた。

 

「君は、自分のその身体をどう思う?」

「・・・どう、とは?」

「君自身が、自分の身体を好きなのか嫌いなのかということだ。」

「僕は・・・・・・」

 

アルフォンスは少しだけ、言い淀む。それについてはずっと、考えてきた。

 

男から女へと、性別は変わってしまったけれども、この身体には文句も不満も何もない。温かいこの身体を命懸けで与えてくれた兄に、ただ感謝の思いがあるだけだ。

だから嫌いになる、なんてあるはずがない。

そう、思っている。

けれどもそれは、アルフォンス自身に限って考えてみた場合の話だ。

 

ここで兄のことを考えてしまうと、それは途端にあっけないほど揺らいでしまうのだった。

 

この身体を、あの人は嫌いなのかも知れない。

あの人にとってこの身体は、重い罪の象徴あるいは、取り返しのつかない過ちの十字架なのかもしれない。

兄がこの身体のせいでアルフォンスを見てくれないのだと思うと、あっという間に嫌いになってしまう。

兄と一緒に生きていくための身体が欲しかったのに、これじゃどうしたらいいのか分からない。

 

「・・・・・・僕は、気に入ってますよ。なんだか母さんに似ているので、懐かしいような気もするんです。」

アルフォンスはそっと、自身の頬に右手で触れた。

ちゃんと柔らかくて温かい。

一番最初に自分の顔を鏡で見たとき思ったのは、あぁ母さんに似ているなということだった。兄も、きっとそう思っているだろう。口に出したことはないけれど。

 

「なぁ、アルフォンス。」

「はい・・・。」

 

「君にとって、“可愛い”というのは褒め言葉になるだろうか?」

 

「・・・え?あ、はい・・・。」

「では、遠慮なく言わせて貰おうか。」

「大佐・・・?」

 

「その姿の君はとても、可愛らしいよ。」

 

「え・・・?」

「君が鋼のの弟でなければ、ぜひ口説きたいところだ。」

「えぇっ?」

「はは、半分は冗談だから気にするな。それに実際そんなことをしてみたまえ、鋼のに殺されてしまう。」

「あの・・・?」

「君は十分魅力的だ、ということだ。内面は勿論、外見もね。だからもっと堂々と、自信を持って生きてゆきたまえ。」

 

優しい声が、染み込んでいく。

心の片隅でわだかまっていた何かが、解けていくようだった。

あぁ、そうだ・・・・。

アルフォンスはもうずっと、こんな風に、今のこの姿の自分という存在を肯定して欲しかったのだ。

ありのままの自分を見て欲しかった。

 

・・・・・・けれども兄は、そうしてはくれなかった。

 

だからこんなにも、悲しくてどうしようもないのだった。

 

「君は、君が思うように生きていけばいい。外見がどうであっても、君の魂は、何も変わらないだろう?」

「・・・・・・はい。」

コクンと小さく頷いて、そのまま顔を上げられずにいると、大きな掌が優しく頭を撫でてくれた。

まるっきり子供扱いで笑ってしまったのだけれど、それを嬉しいと思うのは、全うな子供扱いをされてこなかったせいだろう。

 

・・・ありがとうございます、と礼を述べたら、もう一度優しい掌で撫でられた。

 

 

 

 

そうして大佐が帰った後、いつもより二時間ほど遅れてエドワードがやって来た。どうやら作業に没頭していたせいで、うっかり時間を忘れてしまったらしい。

アルフォンスはちょっと考えた後、兄さんのそういう所は相変わらずだね、と返事をした。

 

その日の会話らしい会話はそれでお仕舞いで、結局アルフォンスは心の中でわだかまっていることを尋ねることができず仕舞いとなってしまった。

 

 

大佐が言っていたように、自分で聞いてみたいという欲求はある。

そうして、真実が知りたい、と・・・。

 

アルフォンスのことを兄は、一体どう思っているのか?

 

けれどやっぱり、いざとなると躊躇ってしまう。

 

もし、兄がこの身体を否定したら・・・?

もし、兄がこの身体を拒絶したら・・・?

もし、お前の身体は失敗作だと言われたら・・・?

 

それを思うと、ただただ恐ろしいのだった。

いくら魂は変わらないと、愛されていると信じたくても、今のアルフォンスにとって魂なんてものは希薄な存在にしか感じられない。

どこにも寄る辺がない。

ぐらぐらと揺れる。

あっという間に猜疑が心を浸食する。

 

そしていつか、この身体も魂も全部、兄がアルフォンスそのものを、嫌いになってしまったら・・・?

 

 

 

 

 

夜が更けて日が昇って、その太陽は滞りなく、今日も天上を過ぎていく。

 

相変わらず青い空を見上げながらアルフォンスは、ほんのちょっとだけ勇気を出してみようと思う。

だってずっとこのままなんて、あまりにも辛すぎるだろう。

 

「・・・・・・ねぇ、兄さん?」

「ん・・・、どうした?」

「・・・・・・僕ね、外に出たい。」

 

アルフォンスがそう言った途端、エドワードは小さく息を呑んだ。相変わらず背中越しだから実際に見える訳じゃないけど、兄を包む空気に緊張が混じるのがよく分かった。

 

「・・・・・・・・・駄目だ。」

「・・・・・・どうして?」

「外なんかに出たら、危ないだろ?」

「僕が、こんな身体だから・・・?」

 

ひ弱で頼りない、出来損ないの、失敗作だから・・・?

 

「・・・あぁ、そうだな。」

 

頷く兄の声は歯切れが悪い。

 

あぁ、やっぱりそうなの。

 

「兄さんは僕を、外に出したくはないんだね?」

「あぁ・・・、出来るなら。」

 

・・・・・・あぁ、そうなの。

 

なら、・・・心配なんか要らないよ。

僕はあなたが望むように、生きていくつもりだから。

我が儘なんて言わない。ずっと大人しくしている。なるべくあなたの視界に入らないように注意もするから。だから、どうか。

 

―――僕をあなたの、側に置いて下さい・・・。

 

他には行く当てなど、無いのだから。

 

「そっか・・・。」

 

アルフォンスが小さく頷くと、今日の背中越しの会話はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

一体、どうすればいいのか?

 

近頃アルフォンスが考えることといったら、そればかりだ。一体どうすれば、アルフォンスは兄に見限られることはないのだろう?

あの優しい人が、そんなことするわけないと信じている一方で、ずっとそんなことばかり考えてしまうのは、病室にばかり閉じこもっているせいなのかもしれない。

 

アルフォンスだってもちろん早く退院したいと思っているし、何よりも兄のためにそうしなくてはいけないのだ。アルフォンスなんかのために、兄が自由な時間を犠牲にしてまで病院通いを続けるなんていう不毛な行為を、一刻も早く止めさせなければ。

 

けれどもそんなアルフォンスの意思に反して、この忌まわしい身体は依然として、弱くて頼りないままだ。そのことにいっそう焦燥感が募っていく。もうこれ以上、兄に迷惑なんてかけたくないのに・・・。

 

 

入院してから早一ヶ月と数週間、一体いつまでこんな生活が続くのだろう?

 

日が経つにつれ、改善の余地が見えない未来に嫌気が差していく。

 

そんなことばかり考えて焦ったせいなのか、アルフォンスは自力で歩いている途中でバランスを崩し、転んでしまった。

とっさに受け身を取ったので衝撃は大したことではなかったのに、床に打ち付けたアルフォンスの弱くて薄い皮膚はいとも簡単に裂けて、みるみる赤い血が滲み出す。

アルフォンスはそれを見て、またひとつ自分の身体に嫌気が差した。

 

・・・あぁ、嘘でしょう?だってこんなの、信じられない。

たったこれだけのことで、こんなになってしまうなんて。

ちょっとやそっとじゃ傷なんか付かなかった、あの修行時代が嘘みたいだ。

 

そうやってアルフォンスはまた、昔を懐かしく思ってしまうのだった。

 

 

 

 

 

もうすぐ、兄がやって来る時間だ。

 

アルフォンスは、ベットの上から空を見上げる。今日はどんよりとした、曇り空。

そこから視線を剥がして自分の腕を見ると、あれから看護婦が巻いてくれた包帯が痛々しく目立っている。傷自体は大したことではないからいいのだけれど、兄がこれを見たら・・・と思うと憂鬱だ。

 

弱くて心配ばかりかけて、いつも守ってもらわねばならないというのがこんなにも苦痛だなんて思わなかった。アルフォンスはただ、兄の隣を一緒に歩んでゆける身体が欲しかったのに・・・。

 

そんなことを考えながら兄を待っていると、ホークアイ中尉が訪ねてきてくれた。大佐からアルフォンスのことを聞いて、お見舞いに来てくれたらしい。

嬉しい再会に話が弾んで、近頃沈みがちだったアルフォンスの心も軽くなる。

 

「・・・それにしても、本当に大佐が言っていた通りね。とても、可愛いわ。」

「えっ?あ、ありがとうございます。」

「そうだ、退院したら、一緒に買い物なんてどうかしら?」

「は、はい!ぜひお願いします。僕一人じゃ、女の子の洋服とか分からないので。」

「じゃあ、決まりね。楽しみにしているわ。」

「はい、僕も。」

 

中尉が軍服を着ているときには見せないような顔でふわりと笑んだので、アルフォンスも自然と頬が緩む。何だかこんな気持ちがするのは久しぶりのような気がして思い返せば、こんな風に心から笑えたのは、先日大佐に会って以来のような気がする。

 

「・・・そういえば、エドワード君のことだけど。」

中尉の口から、急に兄の名前が出てきたのでドキリとした。

 

「兄が、何か問題でも?」

「いえ、そうじゃないわ。」

心配そうなアルフォンスの顔を見て、中尉は思わず苦笑を零す。

「ただ、最近根を詰め過ぎているようだから、あまり無理しないようにとあなたからも注意してもらいたくて。」

「え、兄さんが・・・?」

中尉の言葉に、アルフォンスは戸惑う。その言葉の意味が飲み込めない。

「今日もね、本当はエドワード君と一緒に来ようと思っていたのだけれど、資料室を覗いたら、ソファに横になって眠っていたの。随分と疲れているみたいだったから、そのままにしてきたのよ。」

 

・・・嘘、という言葉が頭の中で鳴り響く。

兄が無理をしている?居眠りしてしまうくらいに疲れている?そんなバカな・・・。

 

「・・・兄さん、僕には教えてくれないから、なにも知らないんです。兄は一体、何をしているんですか?」

 

そうだ、アルフォンスは何も知らない。いや、知ろうとしなかっただけだ。

自分が傷付くのが恐かったから。

 

アルフォンスは、昨日のエドワードの様子さえ分からないことに愕然とした。

顔色を見れば、身体の調子がどうかなんてすぐに分かるはずなのに。兄の顔をまともに見たのは、一体いつが最後だった?

 

「そう・・・。私も詳しくは知らないけれど、生体錬成や人体、それに医療なんかに関する資料を、仕事の合間に読んでいたようね。」

「それって、僕の身体のために・・・?」

「そうでしょうね。何かあったとしても、すぐ対処できるように。」

「そんな・・・。」

「エドワード君の気持ちも分かるけど、それで自分がまいってしまったら、元も子もないわ。だから十分に、気を付けてあげてね。」

「はい。」

アルフォンスはこくんと頷いた。

 

そして中尉が帰った後でようやく、深くうなだれたのだった。

 

 

 

 

 

聞きなれた足音にハッとして、アルフォンスはガバリと上体を起こす。

 

かけられた声に返事をして、緊張しながら扉を見つめた。いつものように入ってきた兄はベッドの側まで来てようやくアルフォンスの視線に気付いたらしく、目が合った瞬間に硬直した。

 

「今日は、遅かったね。」

「・・・あ、あぁ。また、資料の解読に夢中になっちまって・・・。」

 

照れ隠しのようにエドワードは笑ったが、アルフォンスには分かってしまった。それが、無理しているのを誤魔化そうとしている時の顔だって。

そうだ、ちゃんと見ていれば分からないはずがない。一体どれだけの時を、二人で過ごしてきたと思っているのか。

 

それにしてもこれは確かに、何とも酷い顔色だ。気付かなかった自分はどれだけ愚かだったのだろう。

恐らく夜アパートに帰った後も、毎晩遅くまで研究をしていたに違いない。これじゃ、まともに睡眠を取っていたのかどうかも怪しいところだ。

 

しかもエドワードは、嘘を吐いた。

そしてその嘘を吐かせているは、他ならぬアルフォンスなのだ。

それはアルフォンスに心配をかけないように、という配慮に他ならない。

 

あぁ、この身体は、一体どこまで、兄に迷惑をかけてしまうのだろうか・・・?

 

 

 

「もう嫌だ、こんな身体・・・」

 

「え・・・?」

 

 

 

二人の間を震わせた言葉に、エドワードから声が零れる。けれど、聞こえなかったはずはない。兄はとても耳がいいし、ちゃんと聞こえていた証拠に、どんどん顔色が変わっていく。

 

「こんな身体、もういらないよ・・・」

 

「アル・・・?何、言ってんだ・・・・?」

 

兄の声が上擦っていく。

止めなきゃまずいって思ったけれども、止まらない。せきを切ったように、言葉が想いが溢れてきて、自分でも止められない。

 

「兄さんだって思ってるんだろ?こんな手間ばかりかかる僕のこと、迷惑だしもうウンザリだって!」

「アルっ!俺はそんなこと」

「それに性別だって変わっちゃって、この身体がいくつのものなのかさえ分からないし!・・・こんな僕のこと、ずっと気持ち悪いって思ってたんだろ!?」

「アル、止めろ!違う!」

「もう嫌だよ!兄さんに迷惑ばかりかけて。こんな身体、もういらない・・・!」

 

 

 

バシッ!

 

「・・・!」

 

 

 

最初に耳に届いたのは、音だった。

 

それから一瞬遅れて、痛みが押し寄せてくる。

自分の頬っぺた。

痛みよりもよっぽど驚きの方が大きくて、事態を把握するのに時間がかかった。自分は兄に、頬をぶたれた。

 

ゆっくり視線を上げて目の前の人を見れば、兄は左手を上げたまま恐い顔でこっちを見ている。

 

「・・・馬鹿アル!やっとの思いで取り戻した身体なんだぞ!それを“いらない”なんて簡単に言うな!俺達の旅を無駄にするつもりか!?」

「でも、兄さんに迷惑ばかりかかるのが嫌なんだよ!こんな出来損ないの身体じゃ」

「俺は、迷惑だなんて思ってない!」

「でも・・・!」

「迷惑だなんて、思うわけがないだろ?何で分かんねぇんだよ!」

「だけど・・・!」

 

食って掛かろうとするアルフォンスを抑えて、エドワードは僅かに表情を緩めた。

 

「それに錬成する前に言っただろ?俺は、お前が生きて笑うことができるなら、それでいいって。」

「・・・うん。」

「確かに今の身体は不安定で少し弱いけど、ちゃんと生きてる。こうやって触れたら、アルの温もりが分かるし、俺の体温もお前に伝わってるだろ?」

「・・・うん。」

 

エドワードはそっと、アルフォンスの頬に触れた。

ここ1ヶ月間が嘘のように、視線がずっと離れない。真摯な眼差しにドキリとする。果たして兄は、こんなに大人びた表情をする人だっただろうか。

 

「俺はそれだけでいいんだよ。アルが生きていてくれさえすれば。」

 

確かに、兄はずっとそう言っていた。アルフォンスの魂そのものを、愛していると。

確かにそうだったけれど、だったらあの態度は一体どういうことなのか。

 

「・・・でも時々、僕のこと避けてたじゃないか。だから僕、兄さんに嫌われたのかと思って・・・」

「・・・避けては、ねぇだろ。」

「・・・じゃあ、僕のこと見ないようにしてたのは、認めるんだね?」

「・・・・・・・・・アルだって、俺のこと見ないようにしてただろ?」

「それは・・・、兄さんがそうだったからだよ。・・・兄さんは僕のこの身体が嫌なんだと思ってて、だから見ないようにしてたんじゃないの?」

「は・・・?嫌って・・・」

「だって、この身体は兄さんの弟じゃない・・・。気持ちの悪い、失敗作だもの。そんなの見ていたくないだろ?」

 

アルフォンスの言葉で、エドワードの顔が険しくなる。

 

「お前、自分のこと失敗作だとか思ってたのか?」

「僕は思ってないよ。ちゃんと満足してる。」

 

明瞭なアルフォンスの声で、険しかったエドワードの表情が僅かに緩む。

 

「僕は、このままでいいと思ってるけど、兄さんは違うのかもしれないって思ってたの。・・・だって僕のこと見てくれないし触れてくれないし、僕には内緒でまた色々研究してるって聞いたから・・・。」

 

アルフォンスが静かにそう告げると、僅かな沈黙が流れた。

 

緊張した面持ちで兄の様子を窺っていると、エドワードはあぁ、俺はバカかと毒づきながらガシガシと頭を掻いた。

 

「悪ぃ、アル。俺、お前のことずっと傷付けてたんだな。」

「兄さん・・・」

「ごめんな、誤解させるような態度とって。・・・俺も最初のうちは戸惑ってたんだ。どんな態度とったらいいのかって。・・・もちろん、今まで通りにすればいいんだって、頭では分かってるのに上手くできなくて。」

「・・・それはやっぱり、僕がこんな身体だからなんでしょ?」

「・・・怖かったんだ。俺なんかが触れたりしたら、壊れちまうんじゃないかって。」

「・・・それは、僕の身体が弱いから?」

「それもあるけど、俺がお前を傷付けそうで怖かったんだ。アルを守らなきゃいけないのに、一番危険な存在は俺自身なのかも知れないって思ったら、不用意に近づけなくなって・・・。だから必要以上にお前のこと意識しちまって、あんな態度しかとれなかったんだ。」

「何で・・・?危険って、どういう意味?」

 

アルフォンスは言葉の意味が飲み込めなくて、疑問符を浮かべる。神妙な面持ちのエドワードは、そんな戸惑うアルフォンスをじっと見た。

 

「・・・・・・なぁ、アル?」

「な、なに?」

「俺が今、何したいか分かるか?」

「・・・ううん、分からない。」

 

兄の気迫に押されながらも、アルフォンスは素直に首を振った。そんなアルフォンスを見て、エドワードは小さく深呼吸をした。それから、意を決したように口を開く。

 

 

 

「俺は今、アルにキスしたい。」

 

 

 

思いもかけない兄の言葉に、アルフォンスはたっぷり十秒は固まった。唇からは、え?という間抜けな音しか出てこない。

 

「俺は今、不安で震えてるお前の身体を抱きたいって思ってるんだ。・・・な?俺ってすごく危険だろ?」

「・・・はぁ?全然、分かんないよ!」

「何でわかんねぇんだよ!」

「だって!キスだって抱き締めるのだって、子供の時とかいっぱいしてたじゃないか。」

 

本気で困惑顔を浮かべるアルフォンスに、エドワードは何かを諦めたような顔で頭を振る。

 

「・・・違うんだよ、アル。これはそういう気持ちのものとは違うんだ。」

 

 

 

そう、兄が言い終わるか終わらないか、その瞬間はあっという間だった。

 

兄の顔がやけに近いなと思った次の瞬間には、もう、互いの唇が触れ合っていた。

 

 

 

「・・・ぇ?」

 

 

 

兄とキスをしている、と認識できたのは、名残惜しそうに唇が離れていった後だった。

 

さっきまで触れ合っていたそこに、一気に熱と意識が集まってくる。呆けたまま動けなくなったアルフォンスからばつが悪そうに視線を逸らして、エドワードは悲痛な顔で言葉を吐いた。

 

「・・・分かったか?俺がどれだけ危ない存在なのかってコト。・・・今はまだなんとか、理性でこの気持ちに蓋ができてるからいい。でも、そろそろ限界が近いんだ。・・・この気持ちが溢れ出したら、俺は無理矢理にでも、お前を押し倒しちまうかも知れない。それが怖いんだ。俺はもうこれ以上、アルを傷付けたくなんかないのに・・・。」

「・・・それってどういうこと?兄さんは僕のこと・・」

「・・・好きなんだ、アルのことが。」

 

心の奥から、愛おしく大事そうに吐き出された言葉が、二人の世界を揺るがしていく。

 

「単なる兄弟愛なんかじゃなくて、一人の男としてお前を愛してるんだ。」

「本当に・・・?」

「あぁ。」

「僕のこと、嫌いじゃない・・・?」

「むしろ、逆。アルのこと好きすぎて、苦しいんだ。」

「え・・・、じゃあ・・・前に僕の着替え見たときのあれは・・・?」

 

アルフォンスは戸惑う。あの時の兄の反応があまりにもあれだったから、この身体は厭われているのだと思っていたのに。

 

「・・・アレは、男として当然の反応だろ!」

「はぁ?」

「・・・・・・好きな奴のあんな格好見たら、平常心でいられるわけねぇだろ!」

 

真っ赤になったその顔が、こんな恥ずかしいこと言わせんなと叫んでいる。そんな兄を、アルフォンスは信じられないものを見るような目で見た。

 

「・・・でも、前に身体を調べた時は、別に普通だったじゃないか!」

「あの時はそれ所じゃなかったんだよ!俺だって必死だったんだからな!」

 

エドワードの言葉に、アルフォンスは小さく息を呑む。ということは、あの時の兄は、アルフォンスを家族としてではなくて、恋愛対象として見ていたということなのだろうか。

 

「・・・じゃあ、僕の裸見て・・・、エッチな気分とかになったの?」

 

アルフォンスの問いかけに、エドワードはさらに顔を赤くした。目を見開いたまま酸欠の金魚の様に口をパクパクさせて、そのうちやけになったのか、吐き捨てる様に想いを口に出す。

 

「あー、なったよ!悪ぃか、俺だって男なんだよ!」

「う、うん・・・」

「言っとくけど、俺はそういう意味でアルのことが好きなんだからな!」

「う、ん・・・?」

「アルとセックスしたいとか、本気で思ってるんだからな!」

「・・・・・・」

「俺の“愛してる”は、全然キレーなんかじゃねーからな!」

「・・・・・・う、ん」

「俺は、アルの、心も身体も、全部が欲しいんだ。アルの全部を、愛してんだよ・・・。」

 

魂の奥深くから、湧き上がってくる想い。これが、エドワードの心の全てだ。

 

切なさと愛おしさと痛みと、ずっと押さえ込んでいた感情が暴れている。奥歯を噛み締めていないと、涙が零れそうだった。一生、死ぬまで、隠し通そうと思っていたのに・・・。

 

 

 

「僕は、兄さんのこと・・・」

「俺のこと、どう思ってる・・・?」

「僕は・・・」

 

その先の言葉が、出てこない。

 

沈黙の流れる部屋の中で、エドワードは早くも後悔し始めていた。

アルフォンスは、明らかに困惑している。それから一生懸命考えてもいる。どうすれば、兄を傷付けずに済むのかと。

・・・アルフォンスは優しいから、だから、きっとエドワードの気持ちを言ってしまえば困らせると分かっていたから、ずっと隠していたというのに。

 

 

 

「・・・・・・いいよ、アル。無理しなくて。急に変なこと言って悪かったな。」

 

部屋を出て行こうと踵を返したエドワードの腕を、思いのほか強い力でアルフォンスが引き止めた。

 

「待って、違うの!・・・頭の中が混乱してて、よく分からないだけなんだ。そんなこと、急に言われて・・・」

「・・・俺のこと、嫌いじゃない?」

「嫌いになんか、なれないよ。だって兄さんは僕のことを、ずっと想っていてくれるのに・・・」

 

アルフォンスの様子からは、エドワードに対する嫌悪感のようなものは感じられない。それどころか、兄の気持ちをちゃんと受け止めて、返事をしてくれようとしている。エドワードには、それだけでもう十分だった。

 

「嫌われてないなら、今はそれでいい。アルの答えが見つかるまで、待ってるから。今は自分の身体のことを優先しろ。」

「・・・それでいいの?」

「・・・正直、あんまり焦らされるとしんどいから、なるべく早くな?」

 

にぃっと笑った兄は、もういつもの兄だった。アルフォンスはエドワードに対する気持ちの整理がつかないまま、こくんと頷く。

兄は、待ってくれると言った。だったらゆっくり考えれば、このもどかしい気持ちの正体も分かるだろう。

 

「うん・・・。」

「いきなりキスなんかして、ごめんな。」

 

本当に申し訳なさそうに兄が謝るので、アルフォンスは大きく頭を振った。

 

確かに突然でびっくりはしたけれど、そんなに罪悪感を感じないで欲しい。

 

それに・・・。

それに、けして嫌ではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また日が昇って、天上を過ぎて、もうすぐ兄が来る時間となる。

今日は綺麗な、青空だ。

 

ドキドキと心臓が逸る。

 

昨日までとは全然違う心持ちの中で、アルフォンスの答えはもうすぐ、見つかりそうだ。

 

 

 

 

***************

 

はい、こんな感じの仕上がりとなりました。いやー、長かった。

最初、アルが暗すぎてどうしようかと思いましたが、最後の兄さんで全部とんでしましましたよ・・・。

おかしいな、当初の予定じゃ、こんな甘酸っぱい青春風味に仕上がるはずじゃなかったのに。

なにはともあれ、ロイさんにはアルを甘やかして欲しいです。変な意味ではなくて。

 

 

 

 

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